赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

軍功により五千刈加増とはどれほど?騎馬武士一人の抱料に相当か

太閤検地(1582秀吉)の際に 3,000歩(坪)を1町とした。この計算にすると5千刈は役6.6町となるでしょうか。

 

花泉町史通史98】

この軍功賞は「苅」制でだされている。苅制は中世末期まで行われた生産高で、田積を表す方法で、葛西氏は3千苅で4町歩と換算しているようである。

4町歩というのは騎馬武士1人の軍役負担の基準とみられる。4町歩~5町歩が騎馬武士一人の抱料に相当するから、1万3千苅というのは4騎分の加増をされたことになる。ちょう領主が家臣に対して田積を与えることは、律令前から行われていることで「天下所知行(あめのしたしろしめす)」即ち知行として認められたもので、土地財産に対しての固有支配を公認された證文である。鎌倉幕府御成敗式目でこの有効期間は20ヶ年という安堵法を制定したが、次第に領地の1代制が行われ、その子が前代同様の年役につとめなければ遺領は安堵できなかった。領土が家臣に宛行土地は居住する所とは関係なく諸々に分散されているが、1ケ所にまとめるということは狭い土地では他に影響することになるし、又分散することは勢力の増強を抑制することになるという手段でもあったという。

 

仙台藩歴史用語辞典30】

「刈」は、田畑の生産高を表す方法の一つ。古くは何束何把刈の地と称した。転じて田畑の面積などの単位。1刈は4坪。百刈は2百文に相当する。

小次郎の後裔「平士」勘左衛門尚幼は、藩の軍事力と藩政に携わる役

【赤生津安部の出自を尋ねて65】

伊達世臣家譜136「阿倍」に示されているのは、安部小次郎が平士ということではない。平士となった子孫の勘左衛門が、安永年間(1772~1781)に仙台藩に提出した系図の祖が小次郎の意である。小次郎の軍功と赤生津5千刈が由緒はじめに出されている。勘左衛門の父「隋波」は鉱山業で成功し、伊達藩に献上している。

 

赤荻下袋屋敷

1外記之助

2上野

3大学    →(弟)小次郎 ※系図上小次郎の子孫は不明

4豊前 →(弟)1讃岐

         2九久左衛門

         3随波

        4勘左衛門(小平治重頼)1661生―1757

        ※赤生津5代兵部(三四郎)のころ。勘左衛門尚幼は重頼の子か?

※随波史料は「阿部随波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌」による 

 

仙台藩歴史辞典 31】

仙台藩の家臣団はその由緒や身分などによって家格が定められ、序列化されていた。完成された段階での序列は、①一門、②一家、③純一族、④一族、⑤宿老、⑥着座、⑦太刀上、⑧召出、⑨平士、⑩組士、⑪卒の順になっており、組士以上が武士身分であった。

 

平士は仙台藩家臣団の中心で、多くは大番組に編入され藩の軍事力の中心となることを期待され、平時には藩政に直接携わる役職に任じられるものも多かった。「伊達世臣家譜」には知行高100石以上の1,068家が載せられているが、100石未満や切米・扶持方取りの者も2000家以上存在し、「出入司職鑑」によると大番組の中に知行高が100石未満の者が972人、知行地を与えられず切米や扶持米を与えられていた者が1791人それぞれ存在した。

 

①②が伊達家、③が戦国時代の大名、有力家臣、④伊達家の有力家臣、⑤領国経営総括、⑥侍衆で藩主に挨拶できる家臣、⑦侍衆で正月儀式に太刀目録を献上できる者、⑧正月儀式に参加できる、⑩下級武士、⑪武士身分を持たない

  

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赤生津東舘の住人、安部小次郎と白鳥氏とは一族の間柄?

赤生津安部小次郎が一時的でも葛西家臣であったことは証明されている。東舘の白鳥氏とは、衣川安倍氏の血を継ぐ者として同族と考えられているのか?

「白鳥治部少輔」は、母阿部民部介女(安倍氏)と山名(源氏)の血を継いでいる。

「安部小次郎重綱」は、衣川安倍氏の後裔と伝える。

 

【史料仙台領内古城・館1巻 341】

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安部小次郎は、赤荻におらず、やはり赤生津に残っていたか?

赤荻村安部家の祖は、寺袋屋敷であり、

1安部外記助ー2上野ー3大学ー4豊前ー5太郎兵衛、と続く。

安部小次郎左近は、3代大学の弟であり、赤荻安部の7軒の祖には見られない。赤生津に分族したといえる。

 

「代数有之御百姓」では一関赤荻には、①寺袋屋敷 先祖 安部外記助、②宮田屋敷 先祖 安部上野、③外山屋敷 先祖 安部上総之助、④外山屋敷(分家) 先祖 安部内記、⑤外山屋敷(分家) 先祖 安部下総、⑥笹谷屋敷 先祖 安部小平治、上法領屋敷 先祖 安部豊前、⑦石畑屋敷 先祖 安部吉左衛門がある。

 

【一関市史】

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安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明?

 

浜田の反乱に関する「安倍外記之助」の功績をあげたうえで、一関市史では、安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明としている。所領とは、領主・地主によって私有され、支配(知行) 権が行使されている土地のこと。

一関で知行が知られていないとすれば、やはり、赤生津にあるといえるのではないか。一時的でも葛西家臣であり伊達家臣に名の上がった、「安部小次郎」が一時的に知行を有していたのだろうか?

 

【一関市史】

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「葛西晴信知行宛行状」偽書でなく新たな視点で

陸前高田市史11巻 65】

葛西晴信信書状は、葛西氏最後の当主晴信が発したもので、特に浜田安房守広綱(米ヶ崎城主)が、本吉表で起こした「浜田の乱」において功があった家臣に宛てた書状が多いことが注目される。晴信は、永禄2年(1559)から天正18年(1590)まで約30年間にわたって活躍してきたが、家臣にあてた書状には「香炉印」を押したものと「花押」を記したものと2種類があり、また「香炉印」には3種類があると言われている。「花押」にも3種類以上が知られ、署名も「晴信」と「左京太夫」と記されていることなど、晴信文書については以前から識者の間で「偽書説」もあるが、それらをすべて「偽書」として除外するのではなく、新たな視点で歴史資料として掲載し、世の識者に問うべきものと考え、あえて他所の文書も収録した次第である。以下書状は、「岩手県戦国期文書Ⅱ」より採録した。

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葛西晴信の命により気仙江刺磐井胆沢から230人が参陣。安倍重綱(小次郎)の戦功は「勇略、悉く勝利」

気仙沼市史2 557】

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大守晴信は、矢作大隅守に「気仙仕置」を任命したが、その翌天正18年1月さらに気仙沼長崎館の熊谷直長に次の兵力を付与した。

 気仙・江刺・磐井・胆沢仕置

  馬上30騎(1騎に5,6人の従兵が付く)

  弓の者150人

 これは230人ほどの小部隊であるが、精鋭さと、迅速度においてある程度の戦力を持ったものであろう。

「参加した安部重綱への行賞」

将士名 安倍重綱(小次郎) 

居住地 西磐井郡赤生津

戦功  勇略、悉く勝利

行賞  黄海(一関市藤沢町黄海)5000苅

 

「参陣者への行賞」

葛西の応援軍は、館山郭内の長崎館を本営に、大守葛西晴信は城主熊谷伊勢守直資と共に軍を指揮したとみられる。また、全軍将の連絡統制をしたのは軍監小岩信定(磐井郡市野々、釣屋城主)である。小岩一党は、弟の小岩信明(上黒沢城主)・小岩信時(三迫赤児城主)が参陣した。信定・信明共に行賞として1万2000刈(この乱の行賞としては最高)を賜った。信時は2000刈である。信定の養子信鄰は佩刀桑田丸を拝領した。次に行賞順に見ると1万刈加増は羽黒堂下野守で、鹿折信濃の弟及川左馬介討ち取りの功である。また情報連絡に当たった鳥畑堅長(東山松川)も1万刈を加増された。 

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