赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

キリシタンの改名は1704以降困難に。赤生津畑屋敷6代目頃から類族か?

【奥羽切支丹史441】

仙台藩における古転切支丹類族格式の頒布

奥羽地方中、切支丹信徒の比較的濃厚に分布した仙台藩においては、元禄6年(1693)江戸幕府から、水も漏らさぬ切支丹類族取扱規程が発布せられた後、努めてその趣旨の徹底することに意を用いたが、宝永元年(1704)更に同藩で、古転切支丹類族格式18条を定め、藩内および支藩の官憲に分かち、類族の取扱いについて万遺漏なきを期した。

 

宝永元年(1704)古転切支丹類族格式18条

類族の改名は、官辺の手続きが困難であることから、難成事とする規定は当然のことで、すなわちその品(理由)吟味の上、特別な事情に限って許すこととしたのである。また当時の藩主の一族または家老の名は指合名と称して、同名または類似の名を用うることを禁じ、類族に改名を申し付ける慣例であり、切支丹改所では、毎度この事務に悩まされたのである。かかる際は改めた名をすぐに申し出させて、改所の帳簿を改めた。明和2年(1765)、岩谷堂の類族給主三瓶藤蔵の改名のことにつき、....

 

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赤生津村宗門改帳では1688年から1693年に類族あり、前沢町史人別帳では切支丹類族は最後1792年としている。

このことから、赤生津畑屋敷が類族であるとすれば、およそ6代から11代が該当すると推測される。この場合、4代将監は類族ではないことから、分家である長根屋敷には及ばないと見れる。しかし人別帳制度開始以前からのキリシタンであれば、4代将監まで改名が多い理由もわかるのではないか。

 

 

 

天正15年3月13日晴信黒印の「安部外記介宛感謝状」は和談による功(赤荻下袋屋敷阿部軍司氏所蔵)

赤荻下袋屋敷の阿部軍司氏所蔵の本物の感謝状は、一関市史資料編のはじめに掲載されている。阿部軍司氏は、祖安部外記之介の子孫である(昭和58年没)。

【一関市史】

天正15年は元良大膳太夫と浜田安房守との反目から、合戦まで進展しそうになった時、その事情を調査報告し、和談に導いた功に対するものである。 

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同様の文書は3通存在する。

天正15年3月11日 晴信黒印 安部外記之介…石巻市では偽文書?

天正15年3月13日 晴信黒印 安部外記之介…

一関赤荻下袋屋敷(本家)所蔵

天正15年3月20日 晴信黒印 安部外記之介…寺崎清慶「葛西文集」

 

【当調査】

石巻市「偽文書」の件は、後世で書き写す段階で、日付が異なったり印の形やなどに疑問があるということか。

奥州仕置きで葛西氏が滅び、領地が秀吉に没収される3年前の出来事である。領地が与えられてもわずか3年で無効となった。晴信は、直前に浜田の乱に、家臣を戦で参加させ、秀吉に協力しなかったなど、この情勢を見誤ったと批判されている。

たしかに領土は一時的に与えられたかもしれないが、その功績をたたえるため、子孫が感謝状を保管したり、紛失や散財などあれば、写しを作成したのではないか。葛西政権はもはや存在しないため、公文書の再発行などできるはずがない。多少誤った文書であれ、後世が写しの文書を作らざるを得ないのは、やむをえないことではないか。現に、浜田の乱に関する葛西晴信感謝状は、一関市史、東山町、大東町気仙沼市などかかわったほどんどの家臣のいた市町村の郷土史には、重要資料として掲載されている。この功は、経歴に残り由緒となり、伊達家臣となる場合は、待遇にも影響してきた事柄である。石巻市史の編纂委員会には、もっと慎重な調査と意見をもって再度調査にあたってほしい。

1600年伊達家臣の陣に「安部讃岐」(小次郎甥)が参加か?

小次郎の甥讃岐は、伊達家臣の戦にも参加していたのだろうか?

 

 白石御陣に馬上参加したときの扶持米の領収書

【葛西氏研究12号 67】

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 ※扶持米は、米で支給される禄米。1人扶持は1日1人玄米五合の割で、1年に1石8斗が支給される。【仙台藩歴史用語辞典】

 

大東町史181】

上杉領の刈田郡白石城を攻撃し落城、このとき気仙36騎も出陣。その中に小次郎の甥「安部讃岐」が参陣したのか。

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赤生津畑屋敷の正月飾り「魚の切子」はキリシタンの遺風?

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安部本家畑屋敷には魚の切子を飾る風習があった(飾りは年数がたち網目が切れている)。キリシタンである事実は言い伝えでは残っていないが墓地にはキリシタン墓字がある。

 

【全国かくれキリシタン研究会会誌15】

東山町における風習に隠されたキリシタンの遺風

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弾圧から耐え忍ぶ愛に時代が共鳴したのか、「大籠キリシタン殉教 そのこころ」講演から

平成27年記念講演「大籠キリシタン殉教 そのこころ」

カトリック水沢教会担当司祭 高橋昌先生】

 

殉教者は、人々への愛のため、いのちをささげましたキリシタン時代には「愛」ということばを使わないで「お大切」といいました。

エスの山上の説教の「八つの幸い」には、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。

コリントの信徒への第一の手紙では、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義をよろこばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と、「殉教者に通ずるそのこころ」を強調しました。

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 藤沢町の殉死した場所には十字の墓石

「新しいキリシタン学」構築へ大籠殉教物語から

大籠(藤沢町)は、製鉄とともにキリスト教が広まり、世界史上まれにみる激しい迫害を受けた地域です。多くの信者が迫害を受けても、「愛(お大切とよんだ)」をもって耐え忍ぶ「徳」をつらぬいた結果なのかもしれません。

 

【紙芝居「大籠キリシタン殉教物語」事業報告書】

300人余の大籠キリシタン殉教先人崇高の歴史を、子々孫々に受け継がせようとの願いで「紙芝居」がつくられています。

 

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1590年葛西氏滅亡時の赤生津安部の家族構成とその行方

【当調査】

1590年奥州仕置きにより葛西没落時には、赤生津に安部は、2世帯あったと推測される。小次郎から見て、①4人世帯…父上野と兄大学、妻、その子、②3人世帯…小次郎と妻、その子。

 

赤荻下袋屋敷(袋屋敷戒名碑没年と、平均寿命70歳とした場合)

1安部外記之助(1590年没)70歳(戦死でなく7月10日に亡くなる)

2安部上野(1612年没) 推定48歳 ※系図上は浪士

3安部大学(1635年没) 推定25歳 ※系図上は浪士

4安部豊前(1650年没) 推定10歳 ※系図上は浪士

※浪士は主君を持たぬ武士 

 

赤生津安部(当該年代の下袋屋敷と畑屋敷の13代からのデータをもとに世代間年齢19歳とする)

1十郎左衛門義澄(推定1638年没) 推定22歳 ※系図上は浪人  ≒(仮定)安部小次郎※大学の弟

2十郎左衛門義里(推定1657年没) 推定3歳 ※系図上は浪人

※浪人は仕官できず職禄のない武士

※浪人は3代十郎左衛門義則までで、下袋屋敷より1代ながく武士を名乗ったことになる。

※1世代間年数は、(岩手県史4巻66)赤生津風土記の「1世代22~26年」を基準としたいが、当家系の平均19歳とした。

 

【当調査】

1590年に小次郎に子があったかどうかは、データを基にした推測であり、確証がもてない。もし、妻と子と耕作地があれば、そのまま残り、兄夫婦と子は実家(先祖の地)へもどると考えるのが自然ではないか。祖父外記之助が7月に亡くなり、8月の秀吉の仕置きにより居城を追放された。

1外記之助、2上野、3大学、4豊前の墓は、赤荻下袋屋敷に存在する。が、小次郎の墓は赤荻に存在しないという。(下袋屋敷) 

 

※柏山氏は天正18年(1590)8月、秀吉の仕置に遭って所領を喪い居城を追放された。柏山中務少輔明宗の代であるが、明宗は仙北に浪人死亡した。 

 

【浪人】

主人がいない武士は、すべからく浪人である。 徳川幕府の初期に、 豊臣系の大名の取りつぶしなどで、大量に発生する。名字帯刀は許されて、武士としては認知されていたが、その実、身分(士籍)は失われ、町人と同じく、町奉行支配下にある。仕官の口がない浪人の行く末は、内職、寺子屋の師匠、剣術指南など。

[職禄]
お役目につくと加算される。例えば、藩士の場合は、家老職につけば、「家老」という職務に見合う禄が支給される。