赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

白鳥村照井舘は、「照井太郎孝治(1100年代)」の居館、墓は「照井神社(一関市中里)」

【水土里ネットてるい】「照井堰とそれを完成させて照井太郎のお話」

〇照井太郎高春のお墓

・一関市中里字照井地内にある「照井神社」の五輪塔

五輪塔平安時代の特徴的なお墓である。

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〇照井太郎高春の住んでいたところ

・照井太郎高春の住まいは照井館(現在の奥州市前沢白鳥)と言われている。

・しかし他にも住んでいたと伝えられる場所が多くある。

→丸山舘(岩出山町下野目)

→二桜舘(花泉町清水)

→佐沼城(宮城県登米郡佐沼)

 

 

 

 

 

 

 

安倍家系図と白鳥氏、照井氏との血縁関係は?

【①赤生津安部】

白鳥七郎→衣川落城→白鳥村手類(照井?)之舘居住→藤原三代に仕える→高館落城→葛西家臣17代まで仕える→葛西没落で手類之舘住めず→赤生津村に移る

【②赤荻安部】

衣川安倍を祖→外記之介は赤荻といわれるが赤生津居住→葛西没落後→子孫は赤荻へ

【③白鳥氏】

山名氏→衣川関所藤原氏家臣→衣川合戦→津軽に逃げる→母阿部民は白鳥八郎後裔→白鳥に改姓→白鳥民部は葛西没落後不明

【④照井氏】

藤原氏家臣→白鳥村照井館→白鳥川堰を手掛ける→一関照井堰を手掛ける→葛西家臣という(葛西辞典にない)→葛西没落後不明

 

【推察】

(祖は白鳥八郎か七郎か)地方史では白鳥八郎は白鳥氏に、白鳥八郎は白鳥村に戻るという。

(家臣)赤生津安部は、藤原氏家臣であり葛西氏家臣であるという。白鳥氏と照井氏も藤原氏家臣で葛西氏家臣、しかし照井氏は葛西家臣の地方史に名が見つけられない。

(居住地)赤生津安部は白鳥村照井館か?。照井氏は、照井館にいたが、一関照井堰の開削中は山目にいたのではないか。照井子孫が照井舘に残っていたか?白鳥氏は白鳥舘と東舘。

(葛西没落後)赤生津安部は白鳥照井館から赤生津へ移住。照井氏は不明、一関山目に移住したか。現在は前沢地域に照井の名は存在しない。

 

赤生津安部は照井館に居たとしたら、照井から安部に改姓したのか?照井舘が陣場であり、照井氏が不在となり安部が居住していたか?2キロ隣の白鳥舘に通っていたか?

あくまでも推測である。

 

白鳥は葛西の直轄地。恩賞だけの家臣除き、居住した城主は、白鳥治部、照井高晴のみではないか?そのうち天正中いたのは白鳥、照井は子孫がいた

前沢町史中巻160】

白鳥は葛西の直轄地か

白鳥村は再三、葛西の恩賞の地となっている。

永享11年(1439)金沢北館主熊谷小太郎直胤に 1万2千苅

天文12年(1543)前沢領主三田主計頭重明に永代 5千苅

永禄11年(1568)猪岡領主猪岡又太郎に永代  2千苅【偽書?】

元亀3年(1571)前沢領主三田刑部少輔義広に 5千苅【偽書?】

天正3年(1575)佐藤豊後守(母体西館住か)白鳥村に知行という記録が出る。【偽書?】

かくも軍功恩賞の地となることは、白鳥村は葛西氏の直轄領であった証左であろう。

 

岩手県史4・21 城館主名

白鳥

〇白鳥城址(鵜ノ木)

  白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで、

  のち天正中 佐藤豊後【偽書?】

  岩淵伊賀【不明 前沢町史中巻238】

  天文 三田主計【偽書?】

  白鳥八郎、

  小野寺入道某(柏山伊勢守良従)

〇照井館

  太郎高晴

〇新城館

  熊谷直胤一万一1千刈加賜

 

【当調査】

白鳥村に知行宛行されたうち、石巻市に葛西偽書のリストを照らし合せた【偽書?】。

偽書は香炉印などに疑問があるという。勝手ながら信頼をおける城主と見るのは次のとおりであろうか。

白鳥舘・・・白鳥八郎、白鳥治部少輔

照井館・・・照井太郎高晴(1189)

新城館・・・熊谷直胤(1439恩賞)

 

天正のころ昔木館(前沢城)に阿部四郎丈夫安部成(しげ)任古雄居給(いたまう)。安倍一族か?

【前澤町郷土史史料・2】

〇昔木明神

〇昔木館

葛西動乱期の追記、樫山伊勢守二男居城の頃に、前沢御沢城居住す、此城は元来阿部四郎丈夫安部成(しげ)任古雄居給、昔木館と云名地也古来明神の社地有、此所は白狐住玉山御室有此城は官位無くして難所なり

(註)この記録は葛西氏の滅びた天正18年以後慶長、元和の頃に書いたものであろう。その頃までにこの伝説が伝わって居たものか。

阿部ー安部ー安位、成(しげ)任ー重任と発音は共通して居るから、安倍貞任の兄弟、北浦六郎重任と同一人ではないかと考えて見た。併し北浦六郎重任の住居は、今の岩手郡雫石北浦で、その地に稲荷社もあるという。後に改名したとしても四郎を六郎と改める事は考えられないから別人であろう。安倍氏滅びた後、その一族か藤原秀衡に仕えて、前沢の館に居つたのであろうか。今のグラウンドの東下に稲荷社があった。

 

「白鳥八郎行任」は白鳥舘に「白鳥七郎則任」は津軽に逃げ白鳥へ?

 

前沢町郷土史史料・3】

〇白鳥舘(白鳥村風土記

 本丸 南北42間 東西14間

 二丸 南北50間 東西14間

 三丸 南北38間 東西14間

右城主往古阿部頼時の八男白鳥八郎行任と申伝候、其後白鳥治部少輔と申御方天正中御住居之由申候

〇山城白鳥城(仙台古城書上)

 東西22間 南北60間

 城主貞任弟 白鳥八郎阿部行任

〇白鳥古館(奥羽観跡聞老誌)

 在二白鳥村一安倍頼時の第八子白鳥八郎行任館也、天正中岩渕伊賀守居之

〇白鳥古館(封内名跡誌19)

 安倍頼時の八子白鳥行任居館也、天正中岩渕伊賀守居之

以上四跡一所也

 

安倍頼時の七男

衣川安倍頼時の七男則任が、衣川厨川の戦に敗れ津軽に暦み、其後下胆白鳥二在りし事は上代に属す

 

 

照井舘主の子孫照井高安は、荻荘荘司(藤原泰衡子孫で赤荻安部の親戚?)と照井堰を完成させた?

 

【照井土地改良区の概要】http://www.terui1170.com/category7/

当時、干魃や飢饉で苦しみ悩まされ続けた村々の窮地を救うために立ち上がったのが、鎮守府藤原秀衡公の家臣で普請奉行であった照井太郎高春である。その高春の企画により、五串の滝(天然記念物指定)より3㎞ほどさかのぼった当時の五串村、猪岡村の磐井川両岸に穴堰を開削したのである。これが照井堰の起源である。
 その後照井太郎高春は志半ばにして藤原氏滅亡と共に没したが、その下流の水路を高春の子孫高安が荻荘荘司と相諮り私費を投じ、高春の意志を引継ぎ完成させ、村々にかんがいさせたと伝えられている。農民たちは長い年月の夢であった用水に歓喜し、照井氏の偉業を称えその姓を付け照井堰と称しのである。
 それ以降もこの地方を治めていた葛西氏や伊達藩による幾度の改修、照井の子孫大肝入掃部左衛門の大改修、柏原清左衛門による北照井堰の開削、清左衛門の孫柏原新十郎と千葉半右衛門の北照井堰の改修などの大改修がなされてきた。

 

一関中里【照井神社】

https://ameblo.jp/lucky-penguins904/entry-12284073218.html

 

 

 

「照井館(太郎高晴 新城館 熊谷直胤一万一1千刈加賜)」の新城館とは?熊谷直胤?

白鳥村の新城は、地方史では館主不明である。熊谷直胤氏が、住することなく葛西氏から土地を拝領したのみではないか。

 

前沢町郷土史史料】

〇新城(白鳥村風土記

 南北50間 東西14間  古城主年月日相知不申候

前沢町史】

位置 前沢町白鳥字新城

国道4号線が南に白鳥の坂を上る中頃、この道の西方新城ヶ沢の台地上に、この城が在ったが、東北本線の複線小路の土取り場として、この城の山が削りとられ、また東北自動車小路で、昔の面影はない。

風土記に、「新城南北50間、東西34間、右城主並年代不明、今は林となっている」とあって、歴史的事実を知る由もない。

 

〇熊谷直胤

(熊谷直胤に関するネットから情報)

http://kasaikiyoshige1219.livedoor.blog/archives/18732919.html

「熊谷家系譜」によると永享十一(1439)年六月、大崎氏との佐沼での合戦に出陣した熊谷直胤は、軍功によって葛西持信より「白鳥郷の蒼田一万二千苅」を拝領したと記されています。

中館熊谷氏の系図によればこの年(天文8年(1539))は、元良郡中館館主(気仙沼市月立字表松川)中館熊谷上総介直胤の長男肥後守直豊の次男下野守直元に長男直徳が誕生します。