則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。 中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母…
前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。 則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡…
(著者) 則任の妻は、敗戦により敵軍の妻に差し出されるのを嫌がり、夫のためにも、自害を選び、三歳の子とともに、堀の水に沈んだ。列女と云われる所以となる。 前太平記には、則任と妻の出会いが描かれている。妻は、「土師氏」の子孫というが詳しくは分…
前太平記の「安倍則任の恋物語」とある。
前九年で井殿は盲目のため無罪で生き残る。胆沢愛宕に多い「安倍家」は、井殿の家臣一族
義家と貞任が戦う姉体町宿 義家の陣場となった姉体町の宿場。黒石町鵜木城の貞任と戦う。跡には八幡宮が
胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。刀もつくられたか
矢尽山「僧寺」 胆沢ダムからひめかゆ温泉の山 義家が貞任と良照を追い、僧寺の山を焼け尽したという。矢尽山という ※胆沢町史
安倍氏の親族である清原軍(秋田県)が官軍を安倍氏の城柵に誘導する。清原軍は、安倍氏の軍事作戦を知る。敵軍清原氏の従弟(母親が清原氏)である宗任、正任ははじめから逃げる覚悟であった。母親が清原氏でなく、金氏の安倍貞任、重任、則任がおもに官軍…
極楽寺(北上市稲瀬町)に境講師が任期中在住。その後胆沢(胆沢ダム)「僧寺」在住。前九年合戦では、小松柵(一関)を守るが、胆沢の「小松の谷木」から秋田街道通じ秋田県大仙市の「唐松城」へ逃げる。義家軍に攻め滅ぼされる。
貞任を追う八幡太郎義家軍のルート ①衣川館から馬留(胆沢ダム) 衣川館→一首坂→兎口館(胆沢愛宕)→大歩→小歩→永徳寺→首無沢(金ヶ崎)→門ヶ城(愛宕原・愛宕小学校)→法願館(鹿合・胆沢愛宕)→猪鼻館・栄の花(胆沢ダム記念館)→橋渡し→矢尽山(ひめかゆ…
鳥海、厨川落城後に、比與鳥、鶴脛が攻められる。はじめは、比與鳥で則任が奮闘するが敗れ、次に鶴脛に行くが、恐れおののき逃亡した。 鶴脛城に城柵はあり、木や岩が投げられないか注意しながら登ったというから、ある程度高台にあるはずである。
宗任、正任の母は、清原氏であり、敵である従弟や親戚に追討される。 貞任、則任、重任の母は、金氏であり、清原氏と直接の血縁関係にない。官軍、清原氏に殺されたのは貞任、重任である。
白鳥舘本丸の北側は崖で、登ろうとする官軍に木や岩を投げ落とせるには十分な高さかと。 白鳥舘は南側は平坦地で攻められやすいが、北側の崖からは攻めにくい。 地方史から見ると前九年合戦で官軍は貞任を追い、瀬原柵→照井舘陣場→大麻生柵→白山→姉体と攻め…
前太平記 135P 主将比與鳥二百人を引き連れて降参。 鶴脛 比與鳥すでに陥落し、士卒逃走し、残りの士卒は大将(則任)とともに降参したとつげられ、
前太平記 四郞正任は八幡殿の襲ひ來り給ふと聞きて、「何樣にも手痛き戰あるべし。義家ほどの猛將が、しかも大勢にて寄せ來るに、我これに對して戰はんに勝利を得んこと難かるべし。然あればとて一戰もせで聞逃にせんこと天下の人口も恥づかしければ、敵を待…
日本外史137頁 城後の山を伝わりて夜に紛れて逃げる。 寄り手を塀に誘い木石を投げかけて圧殺されないように進むなと・・・ 鉤縄を取り出し石垣へ投げかけて、馳せ登り城に入りて・・ (著者) 鶴脛城は城壁のある城、後ろが山つづき、北上相去の「相去城」…