赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は?

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。 中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母…

仙台叢書には、①比與鳥柵は白鳥舘、②列女則任妻は白鳥舘東の北上川の藻屑となる

前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。 則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡…

前太平記の「安倍則任の恋物語」とは

(著者) 則任の妻は、敗戦により敵軍の妻に差し出されるのを嫌がり、夫のためにも、自害を選び、三歳の子とともに、堀の水に沈んだ。列女と云われる所以となる。 前太平記には、則任と妻の出会いが描かれている。妻は、「土師氏」の子孫というが詳しくは分…

「比與鳥柵」もうひとつの擬定地 江刺稲瀬「正源寺」

前太平記の「安倍則任の恋物語」とある。

黒沢尻柵跡

前九年合戦の戦場か 北上市「相去城」

安倍頼時弟の境講師良照は、天台宗定額寺(官寺に次ぐ)極楽寺(北上市稲瀬)の講師

貞任の兄盲目の井殿の屋敷跡(水沢佐倉河)。子孫は掃部長者伝説

前九年で井殿は盲目のため無罪で生き残る。胆沢愛宕に多い「安倍家」は、井殿の家臣一族

姉体町は、前九年合戦戦場。「大壇」は兵士の墓

義家と貞任が戦う姉体町宿 義家の陣場となった姉体町の宿場。黒石町鵜木城の貞任と戦う。跡には八幡宮が

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。舞草刀の髙橋一族がいた伝説

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。刀もつくられたか

貞任を追う義家「大歩」「小歩」は、胆沢川の重要な分水口。貞任、宗任が胆沢平野開発か

天台宗講師の境講師良照は、矢尽山「僧寺」(胆沢ダム)に居た

矢尽山「僧寺」 胆沢ダムからひめかゆ温泉の山 義家が貞任と良照を追い、僧寺の山を焼け尽したという。矢尽山という ※胆沢町史

前沢白山「六日入城」は上麻生柵の予備城

貞任を追う義家「黒沢尻難攻不落」で一夜舘(北上市稲瀬)に陣をはる

安倍正任、家任、則任は三つの柵に分散、義家軍は軍を分かち差向ける。作戦の指揮は貞任か

安倍氏の親族である清原軍(秋田県)が官軍を安倍氏の城柵に誘導する。清原軍は、安倍氏の軍事作戦を知る。敵軍清原氏の従弟(母親が清原氏)である宗任、正任ははじめから逃げる覚悟であった。母親が清原氏でなく、金氏の安倍貞任、重任、則任がおもに官軍…

安倍頼時の弟「境講師良照」は、天台宗講師。陸奥の天台宗は安倍氏からか

極楽寺(北上市稲瀬町)に境講師が任期中在住。その後胆沢(胆沢ダム)「僧寺」在住。前九年合戦では、小松柵(一関)を守るが、胆沢の「小松の谷木」から秋田街道通じ秋田県大仙市の「唐松城」へ逃げる。義家軍に攻め滅ぼされる。

貞任を追う八幡太郎義家軍のルートは①衣川館から馬留(胆沢ダム)、②衣川館から高山(水沢佐倉河)、③瀬原柵から鳥海柵、④東街道(生母、黒石、江刺)

貞任を追う八幡太郎義家軍のルート ①衣川館から馬留(胆沢ダム) 衣川館→一首坂→兎口館(胆沢愛宕)→大歩→小歩→永徳寺→首無沢(金ヶ崎)→門ヶ城(愛宕原・愛宕小学校)→法願館(鹿合・胆沢愛宕)→猪鼻館・栄の花(胆沢ダム記念館)→橋渡し→矢尽山(ひめかゆ…

貞任の妹の白糸城(金ヶ崎) 八幡太郎義家に恋して亡くなる 義家捕虜伝説も

前九年合戦の小松柵 境講師が守る 境講師は胆沢ダム小松を通じ秋田唐桑城へ逃亡

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢堀切明神神社

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢「替馬壇」。義家の馬を葬る

鶴脛柵は江刺稲瀬鶴脛台 厨川落城ときき兵は逃亡

鳥海、厨川落城後に、比與鳥、鶴脛が攻められる。はじめは、比與鳥で則任が奮闘するが敗れ、次に鶴脛に行くが、恐れおののき逃亡した。 鶴脛城に城柵はあり、木や岩が投げられないか注意しながら登ったというから、ある程度高台にあるはずである。

前九年合戦八幡太郎義家の足跡「衣川 一首坂」

前九年合戦で宗任、正任が逃げる理由は、官軍に寝返った従弟の清原氏が原因

宗任、正任の母は、清原氏であり、敵である従弟や親戚に追討される。 貞任、則任、重任の母は、金氏であり、清原氏と直接の血縁関係にない。官軍、清原氏に殺されたのは貞任、重任である。

比與鳥柵は白鳥舘か 城から木や岩を投げ落とす高さの城は

白鳥舘本丸の北側は崖で、登ろうとする官軍に木や岩を投げ落とせるには十分な高さかと。 白鳥舘は南側は平坦地で攻められやすいが、北側の崖からは攻めにくい。 地方史から見ると前九年合戦で官軍は貞任を追い、瀬原柵→照井舘陣場→大麻生柵→白山→姉体と攻め…

貞任を追う八幡太郎義家の東街道の足跡 「水沢黒石町 高清水」

慈覚大師と経塚「相去奈良山観音堂」 

比與鳥城落城後に鶴脛柵

前太平記 135P 主将比與鳥二百人を引き連れて降参。 鶴脛 比與鳥すでに陥落し、士卒逃走し、残りの士卒は大将(則任)とともに降参したとつげられ、

黑澤尻柵 正任城中へ八幡太郎引き入れ搦め手より逃げる(前太平記)

前太平記 四郞正任は八幡殿の襲ひ來り給ふと聞きて、「何樣にも手痛き戰あるべし。義家ほどの猛將が、しかも大勢にて寄せ來るに、我これに對して戰はんに勝利を得んこと難かるべし。然あればとて一戰もせで聞逃にせんこと天下の人口も恥づかしければ、敵を待…

安倍軍は鶴脛城の城後の山より抜けて空城となる(日本外史)

日本外史137頁 城後の山を伝わりて夜に紛れて逃げる。 寄り手を塀に誘い木石を投げかけて圧殺されないように進むなと・・・ 鉤縄を取り出し石垣へ投げかけて、馳せ登り城に入りて・・ (著者) 鶴脛城は城壁のある城、後ろが山つづき、北上相去の「相去城」…