赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

2021-05-01から1日間の記事一覧

赤生津東舘の住人、安部小次郎と白鳥氏とは一族の間柄?

赤生津安部小次郎が一時的でも葛西家臣であったことは証明されている。東舘の白鳥氏とは、衣川安倍氏の血を継ぐ者として同族と考えられているのか? 「白鳥治部少輔」は、母阿部民部介女(安倍氏)と山名(源氏)の血を継いでいる。 「安部小次郎重綱」は、…

安部小次郎は、赤荻におらず、やはり赤生津に残っていたか?

赤荻村安部家の祖は、寺袋屋敷であり、 1安部外記助ー2上野ー3大学ー4豊前ー5太郎兵衛、と続く。 安部小次郎左近は、3代大学の弟であり、赤荻安部の7軒の祖には見られない。赤生津に分族したといえる。 「代数有之御百姓」では一関赤荻には、①寺袋屋敷 先祖 …

安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明?

浜田の反乱に関する「安倍外記之助」の功績をあげたうえで、一関市史では、安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明としている。所領とは、領主・地主によって私有され、支配(知行) 権が行使されている土地のこと。 一関で知行が知られていないとすれば、やは…

「葛西晴信知行宛行状」偽書でなく新たな視点で

【陸前高田市史11巻 65】 葛西晴信信書状は、葛西氏最後の当主晴信が発したもので、特に浜田安房守広綱(米ヶ崎城主)が、本吉表で起こした「浜田の乱」において功があった家臣に宛てた書状が多いことが注目される。晴信は、永禄2年(1559)から天正18年(15…

葛西晴信の命により気仙江刺磐井胆沢から230人が参陣。安倍重綱(小次郎)の戦功は「勇略、悉く勝利」

【気仙沼市史2 557】 大守晴信は、矢作大隅守に「気仙仕置」を任命したが、その翌天正18年1月さらに気仙沼長崎館の熊谷直長に次の兵力を付与した。 気仙・江刺・磐井・胆沢仕置 馬上30騎(1騎に5,6人の従兵が付く) 弓の者150人 これは230人ほどの小部隊であ…