日本外史133頁 城塀に鈎縄手を投げかけて躍り入ろうとする所に、城中よりかねてより用意していた大木・大石を投げ下ろす。…打ち殺される者数十人におよぶ。 (著者) 江刺稲瀬の「鶴脛台」には、高い崖はない。 前沢白鳥の「白鳥館」は、岩の崖の上に館跡が…
官軍は、二手に分かれた。 ①八幡太郎義家は、黒沢尻から厨川へ ②加藤景道・荒川太郎は、鶴脛・比與鳥へ 陸奥話記 ①正任が居る所の、黒沢尻柵を襲いてこれを抜く。… ②又鶴脛・比與鳥の二柵、同じくこれを破る。 同14日、厨川に向かう。(①) 前太平記 鳥海か…
黑澤尻、鶴脛、比與鳥落城の事 斯くて將軍、鳥海に逗留あつて軍勢を分かち、諸方の賊を攻めしめらる。貞任が弟四郞正任が籠りたる和賀郡黑澤尻の柵五五へは八幡殿を大將として二千五百餘騎にて差し向けらる。また鶴脛五六、比與鳥五七の二柵は五郞家任、七郞…
「前九年後三年日本外史衍義」は国会図書館所蔵、明治19年神田民衛著作である。 133頁 まず比與鳥の城へ加藤可景道平太夫國妙兩将を向けたまう。この柵の主将は貞任の弟比與鳥七郎 総勢2800人の官軍が攻め来ると聞くよりも 今はすでに鳥海、厨川も陥りたりと…
赤生津村鈴木家(荒屋) 長根屋敷鈴木家より元禄初年に分家。初代、二代、四代は赤生津肝入役。五代兵之助は赤生津肝入、長部村・小島村肝入も兼任。六代市左衛門も三村肝入役、天保四年の大凶作に貧民救済のため金を献上、苗字帯刀永々御免となる。七代文三…
葛西没落の直前には、葛西晴信から感状を賜る。これは浜田の乱で功績があり、赤生津村に五千刈が給付される証書。その恩恵により、この土地には、分家の赤生津安部家23軒が住んでいる。 赤荻安部氏の子孫である仙台藩士の阿部随波の家系が所有していた赤生津…
発掘された赤生津安部家系図 安倍頼時七男白鳥七郎則任は、衣川、厨川の両城の落城により、その後降参し、胆沢白鳥村(牛類または手類)舘に居住し、先妻は厨川の堀に沈んだ。その後、妻を娶る。その子孫が同所にやや久しく居た。その後、鎮守府将軍藤原之清…
「十郎左衛門を祖とする安部家がある(20代続く)。【二】の安部家との関係は不明 ? 【二】磐井郡赤荻安部家(一関市) 祖の安部外記之介は、天正15年の本吉郡(宮城県)志津川城主元吉大膳大夫と気仙郡浜田城(陸前高田市)城主浜田安房守広綱の対立による…
宿屋敷(大石家) 中世後期に赤生津城白鳥氏の家老を務めた家柄。 寛永年間から明暦三年まで茂右衛門が初代肝入。 茂氏は生母村長、前沢町文化財委員。 箱根屋敷(三浦家) 先祖は相模国三浦半島の豪族三浦氏の後裔、戦いに敗れ福島、次いで平泉に逃れて赤生…
頌徳碑(しょうとくひ)という村に貢献した人を讃える碑が赤生津村に2ケ所ある。 鈴木文三郎氏は、生母村初代村長、製糸工場を設置、衆議院議員となる。 安部精蔵氏は、三期村長、開田や赤生津橋を架設した。
束稲山麓の開拓により、棚田などの農地が増え、嘉永6年(1853)洪水で、白鳥舘を囲むように沖積地が広がった。桑の葉が栽培され、養蚕が盛んになり、赤生津村民は豊かな暮らしができた。 養蚕業は、宝暦3年(1753)安部家が先駆けて普及。水害が多い地域だ…
寛永19年(1642)、母体村、赤生津村の一部から、「田河津村(41戸)」が誕生。年貢を納めやすいように、束稲山の東側が独立した村。 赤生津村の一部であった「矢ノ森」は、藤原氏全盛期から金堀が盛ん。「藤壺の滝」「切支丹処刑場」などの矢ノ森八景がある…
赤生津村には21軒あった。乞食や、村からの逃亡、金山遭難、人を斬って逃げ去り、御判金に困り逃げ去りなどの事件が続く。赤生津村は7軒に減る(田河津村の独立も影響か)。これは、豊臣秀吉が金堀の年貢を重くしたため、「つぶれ」という貧困や、借金からの…
豊臣秀吉の天下統一により、全国の金山、金山が独占され、金貨・銀貨が鋳造。母体村、赤生津村では、藤原氏時代から白鳥氏が金山を経営。その権利は全て奪われた。 慶長17年(1612)、田河津村がまだなく、母体村や赤生津村に含まれていた頃。農家は、金堀(…
豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏が滅亡し、白鳥村、目呂木村、赤生津村、田河津村、母体村を知行とする領主、白鳥民部少輔は、追討軍に追われ行方知らず。 秀吉が命令した小田原参陣に遅れたため、葛西氏領土が没収。遅れた理由は、葛西氏領内の豪族の争乱「…
~赤生津七軒の農村文化のあかし~ 赤生津神楽目録(山ノ神屋敷所蔵) 萩荘村、胆沢狼ヶ志田(おえなしだ)通じて、明治37年、赤生津に伝わる。台本には43演目あり、「八岐大蛇退治」なども演じた。大蛇の中は籾殻だったという。 鳥舞と八岐大蛇 行山鹿踊免…
1 夢と誇りのある昔物語 第1話 武士が帰農した村「赤生津七軒」の足跡 第2話 勇将モレを祀る「摩崖仏」、慈覚大師作「西舘観音堂」と「薬師堂」 第3話 安倍頼時と藤原秀衡の桜山「束稲山」の荒神 2 誇りと愛着を育む地域づくり、互助の地域づくり 小川に沈…
大昔、生母には、束稲山の鉱山資源と農業を開拓した祖先がおりました。 ところが、陸奥の資源をめぐって、朝廷と蝦夷の合戦に巻き込まれることが度々ありました。また、頻繁に、水害や干ばつに見舞われました。そこから、自然災害に負けない農業づくり、信仰…
中沢溜池から 駒込堤まで
1690年上胆沢・下胆沢の図
照井太郎と白鳥八郎は別々の館にいた。同一人物ではない。 比与鳥七郎則任は白鳥八郎と同一人物ともいわれる。 赤生津安部は、照井太郎のいた照井舘にいた。比与鳥七郎の子孫という。 赤生津安部は、白鳥八郎(子孫)であろうか。このように推測できる。 県…
赤生津安部家は照井舘の出身である。照井館には代々、照井太郎が住み、胆沢平野の穴山堰を開削していた。その穴山堰は、胆沢平野で白鳥川の北側高地に平行に掘られている。高地から低地へと水が流れるようにかと思われるが、地図を見ると現胆沢ダムからトン…
白鳥舘の東の北上川沿いにある「大師さま」 なぜこの地域に石像があるのかなぞ(平泉町住民) 【著者】 大師さまは、1100年頃の像で、天台大師と伝えられているが、詳しいことは知られていない。 黒石寺の大師とも似ている。黒石寺の大師は、「僧形八幡伸」…
解説【市世界遺産登録候補地ガイドの会 後藤和夫氏】 時衡 父泉冠者泰衡 嘉應元年正月ニ生レ文治五年九月三日頼朝ノ先鋒畠山重忠ト戦ヒテ討死セリ年二十 (嘉応元年(1169)、文治五年(1189)、長男) 秀安 父泰衡 安元二年ニ生レ父兄死去ノ時年十四ナリ叔…
【旧小山村本郷 先人達の足跡 55】 【著者】 古城の明後沢遺跡の南下100mの雑木にうもれるように石碑があるという。現在の地主もはっきした場所がわからないらしい。明後沢遺跡は昭和30年代に発掘され、藤原時代の瓦なども出土。中尊寺の寺領ともいわれる場…
(著者) 盛岡市天昌寺に厨川柵の堀の跡といわれる場所がある。前九年役で追われた安倍則任の妻が身を投げたといわれるが、堀にしては浅いのではないか。 盛岡駅周辺で北上川も近いが、それほど深い淵はなさそうだと思う。 前沢の白鳥舘脇の北上川であれば、…
囊塵埃捨録 烈女が淵 白鳥舘の東。山際北上川の岸通りなり。前九年の闘戦に。貞任が一族郎等討死降参して。所所の城柵攻抜れ。此白鳥舘も敗亡す。則任が妻女義を(騙)勇に募て。尊父則任未練を發させじと。三歳になりける女兒を抱て。加美川(今の北上川)…
「仙台叢書第七巻」 「囊塵埃捨録」 「比浦柵迹。都鳥村」 「白鳥舘の領主比與鳥七郎則任を白鳥七郎と云り。則ち家任の舎弟なり。」 「比與鳥柵跡」 「衆人此柵を白鳥舘と云。前九年の合戦に。安倍頼時が。七男比與鳥七郎則任。此柵に楯籠官軍と戦ふ。加藤修…
「新城」は、白鳥舘、照井舘と同じく、天正(1590)の葛西没落まで存在した舘である。この「新城舘」に関する史料はいまのところない。しかし、白鳥マップのなかに、手掛かりがある。 新城公葬地の東の林中に、「白鳥舘阿部家の墓所が約30坪にわたり墓石群が…
前沢町郷土史、前沢町史でも課題にのこされた三田氏以前の城主は 日本家系家紋研究所(平成5年発行)によると 安倍正任 黒沢尻四郎 ー 頼嗣 黒沢五郎 ー 成任 黒沢尻四郎二郎 前沢お物見公園の昔木館伝説は、安部頼時の孫、貞任の甥にあたる「成任」が城主を…