衣川安倍氏の後裔と伝えられる、奥州市前沢の生母赤生津安部の祖は、1590奥州仕置による家系断絶の危機と、1640年のキリシタン弾圧による断絶危機を逃れ、密かに生き延びてきたと伝えられる。
残された史料は、「家譜が切り取られた19代の系図」と、戦後、突然現れた「葛西氏家臣家譜」の史料みが手掛かりとなる。今も生き続ける赤生津集落の安部は、衣川安部の後裔と信じ、21代にわたり一族に希望と誇りを与えてきた。
今、赤生津安部家は、後継者が途絶えようとしており、語り継ぐ住人が少ない中、一族の故安部徹良氏などが、明治以降公開されはじめてきた、伊達家臣や葛西家臣の史料をもとに、安部の血族を証明しようと平成21年から研究をすすめてきた。
衣川安倍といえば、前九年の役で滅亡し、その血は奥州藤原氏につながれた、歴史上の英雄である。
赤生津安部家の代々書き写された家譜には、父頼時、兄貞任とともに八幡太郎義家と戦い敗れ、津軽に隠れた後、白鳥・赤生津に帰したと語り継がれる。
戦災、迫害、火災により史料がなく、残るは19代の系図と家譜の伝説のみとなった。
歴史上の白鳥氏
「前沢町史中巻」や「戦国大名葛西氏家臣団事典」によると、室町期、白鳥舘の城主であった白鳥氏は、奥州の戦国大名・葛西氏の家臣だったが、豊臣秀吉の奥州仕置後(1590年)、葛西氏と共に没落し、その後帰農したか他へ仕官したかは定かでないとしている。
故安部徹良氏など研究「赤生津安部の出自を尋ねて」の結論の一つに、葛西氏家臣「安部小次郎」が赤生津に移住する以前に安部の本家畑屋敷(19代の祖)は存在していたのではないかという仮説で惜しくも中断した。
さらに、令和3年2月になり、奥州市歴史遺産課からの「石巻の歴史」葛西関係偽文書目録の提供により小次郎に赤生津五千刈が与えられた事実に疑問が残され、調査は難航することになる。
今後の調査では、一関赤萩安部がなぜ、白鳥舘と関係をもっていたのか、因果関係から追ってみたい。
「安倍貞任の弟・白鳥舘城主」の子孫を奥州仕置から守るためにどんな策を講じたのか。逃亡することなく、白鳥から安部に改姓、一関赤萩系安部になり、藩の詮索から子孫を守ったのであろうか。
「軍功により赤生津安部に五千刈(5町)を永年与えられた」ことに疑問が残るが、現に畑屋敷安部家には約5町相当の田畑があり、一族は武士の祖と信じ守り継がれてきた。
赤生津安部後裔として、引き続き「白鳥舘・赤生津舘の住人」に関する調査を進めることとした。この調査は、ひいては白鳥遺跡の史実の研究にもつながることを願っている。