赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

白鳥舘の住人は白鳥か安部か

 

f:id:zyuurouzaemon:20210411174338j:plain

 

 

1 平泉の発展に貢献した「白鳥舘・東舘(赤生津城)の城主白鳥氏」とは

白鳥舘は、11世紀から15世紀まで、平泉の生活基盤を支えて北上川交通の要衝地として平泉の発展に貢献しましたが、対岸にある赤生津城も重要な役割を果たしています。

白鳥舘と東舘(赤生津城)は、本城、支城の密接な関係にあります。城主9代から1585年落城まで仕えた大石家老の時代には、赤生津城に2万7千石、母体、赤生津、田河津、黒石など下胆沢を広く知行しました。田河津産金などの積出港で秘密の要衝地でもあります。北上山地の産金は重要な財源で、阿弖流為の時代から米里、伊手の鉱山事業が密かに進められてきました。

城主白鳥氏は、安倍貞任の弟の後裔で、1590年奥州征伐により帰農したと伝えられますが、それ以降の系譜は明らかではありません。

白鳥舘遺跡世界遺産登録候補地となった今日、城主と赤生津祖の因果関係が明らかにされるべきです。

            

2 帰農した白鳥氏の後裔が「赤生津安部の祖」である可能性(今後の調査課題)

  

赤生津で武士から帰農し浪人となった安部の祖には、①安部小次郎、②白鳥氏が伝えられます。

 (1)安部小次郎祖の可能性

安部小次郎(一関赤萩の分族)は、赤生津に5千刈を与えられ1575年から居住。葛西家臣譜と伊達家臣譜では、赤生津安部の祖を、安部小次郎としています。故安部徹良氏(長根屋敷後裔)研究(別冊)により畑屋敷系図初代は、1546年頃から始まり、小次郎の移住の29年ほど前に祖となったことから一致しないことが結論付けられました。

 さらには、奥州市歴史遺産課から提供(令和3年2月9日)された葛西関係偽文書目録から、安部外記之介に赤生津五千刈を与えられた事実が虚偽であったことがわかりました。

 

「安部外記之介に赤生津五千刈」が偽りであることの史料

――――――――――――――――――――――――――――――――

石巻の歴史第6巻特別史編(平成4年3月31日)」第3章戦国大名 葛西氏の歴史

偽文書目録

偽文書と思われるもののリストを提示することとするが、偽書と分かっても粗末にするのは早計である。確かに根本の史料にはならないが、文書の内容に多くの示唆に富む伝承記述が入り込んでいるので、葛西の歴史の肉付けの史料にはなると思う。

葛西関係偽文書目録

葛西晴信文書(丙類・平栄黒印系)

  (年月日)    (差出書札礼) (宛所)

42 天正15年3月11日 晴信(黒印) 安部外記之介

63 天正16年6月7日  晴信(黒印) 安部小次郎

――――――――――――――――――――――――――――――――

【偽文書】

天正15年3月11日付安部外記之助宛晴信黒印状・寺崎清慶

赤萩の宮田城主。天正15年春、安部記之助は、葛西家執事男沢越後守と力を合わせ、本吉大善太夫重継を気仙郡の浜田安房守広網の確執抗争を和解させた功により、本領に併せて胆沢郡赤生津邑(前沢町)に五千刈を永代宛行われている

【偽文書】

天正16年6月7日付安部小次郎宛晴信黒印状・石巻市毛利家所蔵文書

 この度、気仙出陣の処、その方勇略をもって悉く勝利を得、大慶の至りである。之に依り賞として岩井群黄海村にて、五千刈宛行うものである。仍って感謝状件の如し。

―――――――――――――――――――――――――――――――

※伊達世臣家譜、葛西氏臣家譜にも疑問が残ります。

1585年(天正13年)赤生津城落城

1587年(天正15年)安部外記之助が赤生津邑に五千刈五千刈を永代宛行われる(葛西氏文書)【?】

1588年(天正16年)「安部小次郎重綱を以て祖となす。重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津邑に五千刈の地を領す」(伊達世家臣譜)【?】

安部小次郎宛に岩井群黄海村に五千刈宛行う(葛西氏文書)【?】

1590年(天正18年)葛西氏没落と共に赤生津を去り先祖伝来の地赤萩(一関市)に帰農

<白鳥氏>おそらく白鳥一族は天正初めより家勢衰え、赤萩安部氏の来往に伴い「東城」を明け渡し、鵜の木の「白鳥城」に一族撤退し天正の没落を迎えたのであろう。(葛西氏臣家譜)

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

葛西氏の偽文書により「安部外記之助が赤生津邑に五千刈を永代宛行われる」事実に疑問が残りますが、安部小次郎が、赤生津の祖でないことの証明はありません。

安永風土記によると1590年当時、赤生津には、安部氏は畑屋敷「安部十郎左衛門」しか存在していないからです。つまり、赤生津の祖と言われる「安部小次郎」=「安部十郎左衛門」と受け取らざるを得ません。が、確たる証拠がないため、地方史研究者をなやませてきました。

 

f:id:zyuurouzaemon:20210413210149j:plain

 

 

赤生津・畑【安部本家】(生母字田谷)

1十良左衛門義澄(浪人) = 「安部小次郎」ではないか?

(1546年頃生)

2市良左衛門義里(浪人)

3十良左衛門義則(浪人)

4将監(1625年生)

5三四郎

6幸内

7三左衛門

8四郎兵衛

9幸内

10幸内

11幾太郎

12幸内

13専蔵

14幸治

15四郎兵衛

16幸蔵

17夘助

18嘉雄(2009年没)

 

(2)白鳥氏祖の可能性

1585年落城の時、初代義澄は推定41歳(?)であり、その後浪人とするならば、系図の年代と一致します。

安倍貞任の弟、白鳥八郎則任の後裔であるという言い伝えですが、白鳥11代(1411年頃)から1546年までの結びつける系図資料が発見されないため現段階では推測となります。

白鳥氏代々の名に多い「義」が、畑系図の初代義澄(浪人)、2代義里(浪人)、3代義則と関係がある可能性があります。

白鳥氏の家老を務めた大石家の大石喜清氏によると、明治時代に藩所有の系図が戻され、12代以降は白鳥氏と大石氏の混血により大石家の系図となっている。赤生津安部と白鳥の因果関係はわからないとのことです。

奥州市教育委員会事務局歴史遺産課の高橋和学芸員によると、安部の祖である「安部十良左衛門義澄」の名は、「安部」が苗字、「十良左衛門」が通称、「義澄」は名前であり、武士らしい名であり、違和感はない。武士の名前で呼ぶのは失礼で、通称で呼ぶのが普通である。「義」とつく名前はこの辺では思い当たらない。地名を名とするケースもある。系図から1代から3代までは武士であり、4代将監から農民となっているということです。

 

白鳥舘・赤生津城主

1山名義信(1191没)

(白鳥八郎則任)

2白鳥義忠

4白鳥義盛

5白鳥義勝

6白鳥義正

7白鳥義光

8白鳥義信

9白鳥義則

10白鳥光顕

11白鳥義師(1411年)

※1585年落城?

 

3 赤生津安部祖の武士が、どの城主に関係あるか史料に残らない理由

 

武士でありながら、安部の所属する城主が、子孫に伝えられていない理由として、①戦や火災などによる系図などの消失、②奥州討伐と子孫詮索から逃れるため、③キリシタン迫害から逃れるためなど考えられます。

(1)戦や火災などによる系図などの消失

 奥州討伐による1585年(天正13年)赤生津城落城の際の消失。安部本家畑屋敷では、近代では大正、昭和年代に火災があります。古文書や刀などを所持していたと伝えます。現在の系図は分家である畑の安部万王氏宅、本家夘助の5男及川照男氏宅にあります。

(2)奥州討伐と子孫詮索から逃れるため

 今後の調査課題となります。

 仮説ですが、1585年(天正13年)白鳥舘・赤生津城落城の際に、①白鳥氏子孫を赤生津にかくまうため、先祖姓名でもある「安部」に改姓した。②白鳥子孫を一関赤萩の安部一族に見せかけるため葛西氏偽文書を作成し公式の譜第とし、赤生津の子孫の詮索をそらした。討伐により家臣が逃亡や自害を迫られるような時代に、このような白鳥一族を残す策略があってもよいかと思われます。

(3)キリシタン類族となり弾圧を避けるため

1600年代から1700年に安部氏がキリシタン類族となった可能性があります。赤生津人別帳には2屋敷の類族があることが前沢町郷土史にありますが、大石喜清氏によると大石家、安部家がこれにあたるといいます。人別帳が入手できず不確かではありますが、藩の弾圧を避けるため過去の譜第や系図を隠した可能性もあります。