赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍氏から葛西家臣、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起を果した赤萩・赤生津安部一族を追っています

1590奥州仕置当時の白鳥舘・東舘の地方史

 

 

年代

出来事・推察

天正年間

東城を白鳥氏が撤退し一族を白鳥城のみに集結させたのは事実のように思われる。(県南史談会 小野寺啓)

1585年(天正13年)

東城・赤生津城落城(家老大石家) …奥州仕置の5年前に落城か?

1587年(天正15年)

安部外記之助が赤生津邑に五千刈を永代宛行われる(葛西氏文書)【偽書ではない】

白鳥氏が東城の城主であった時期には、小次郎は東城の「住人」ではなかったのか。(県南史談会小野寺啓)

 

1588年(天正16年)

「安部小次郎重綱を以て祖となす。重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津邑に五千刈の地を領す」(伊達世家臣譜))【偽書ではない】

安部小次郎宛に岩井群黄海村に五千刈宛行う(葛西氏文書))【偽書ではない】

1590年(天正18年)

【奥州仕置の赤生津祖安部の推定年齢】

葛西氏没落の時、赤生津祖安部十良左衛門は41歳、子の市良左衛門19歳ではないか。(当調査)

安部徹良氏研究による想定から、初代安部十良左衛門義澄が1546年生とした場合41歳で浪人。2代安部市良左衛門義里が1571年生とした場合19歳で浪人。(当調査)

1590年(天正18年7月)

安部外記之助没

1590年(天正18年8月)

おそらく白鳥一族は天正初めより家勢衰え、赤萩安部氏の来往に伴い「東城」を明け渡し、鵜の木の「白鳥城」に一族撤退し天正の没落を迎えたのであろう。(葛西氏家臣譜)

小次郎は、葛西氏没落と共に赤生津を去り先祖伝来の地赤萩(一関市)に帰農(葛西氏家臣譜)

小次郎は、白鳥氏の撤去後城主となり、葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか。(県南史談会 小野寺啓)

 

 

(1)赤萩安部氏と白鳥舘・東舘の関係を修正する場合

 石巻史編纂者による偽書の疑いのとおり史実を修正するならば、次のような動機が考えられる。しかしながら、浜田氏反乱に対する和解や軍功での葛西氏からの知行賞与は、他の多くの家臣も与えられており広く地方史に残ることから、感謝状の後世の写し書きの際のミスがそのように検証されたものと思う。

 

【修正すると誤った史実が残され、後世の地方史にかなりの影響を与えることに】

史実を修正する場合の内容

安部小次郎に関する偽書と小野寺啓氏の

意見をふまえた推察

①赤萩安部小次郎の赤生津5千刈の事実はなく、赤生津に居住していた場合

赤萩安部氏が白鳥舘・東舘の城主と同族である(葛西氏研究による)。推察では、舘住人として葛西氏に派遣された、または、舘住人として願い出た。

②赤萩安部小次郎の赤生津5千刈の事実はなく、赤生津に居住していない場合

衣川安倍の後裔という赤萩安部氏が、安倍と血縁にある白鳥氏との関連を強固にしたい。