赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津安部と転切支丹

墓石1 

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「C 菩船浄■居士」であろうか?

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墓石2 

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1600年代から1700年に安部氏がキリシタン類族となった可能性があります。赤生津人別帳には2屋敷の類族があることが前沢町郷土史にありますが、大石喜清氏によると大石家、安部家がこれにあたるといいます。人別帳が入手できず不確かではありますが、藩の弾圧を避けるため過去の譜第や系図を隠した可能性もあります。キリシタンに関して安部家旧墓地を調査した結果は次のとおりです。

 

キリシタン墓字

 通常キリシタンが改宗した場合は「卍」の墓字が刻まれるようです。

東山町のキリシタン研究家の畠山喜一氏によると、釣針状の墓字、カリタス(愛)の「C」が刻まれる場合もあるとのことです。

 

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②安部家旧墓地の調査結果

令和2年8月に現地確認したところ、本家旧墓地にキリシタン墓字(釣針状)に似た字が確認されました。浄円寺住職は梵字ではないかと思うが定かでない。奥州市歴史遺産課高橋学芸員によると梵字の「イ天」「雲形天」ではないかとの所見でした。

 

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③1600頃から1792年(※未確定)に類族であった場合

類族となることにより、赤生津に類族が消える1792年まで少なくとも150年以上は藩の監視を受けることとなります。宿屋敷大石喜清氏によると、多くの人が転宗や殉死する中、赤生津キリシタンだけは、藩に守られた。大石家は、その代わり北上川遭難の対処など苦行を強いられたといいます。また、肝入などの要職には就けない。赤生津村内でも固く秘密として守られ、やがては忘れ去られたのではないか。

時代背景として1610年頃、赤生津には21軒がありましたが、夜逃げ、殺人、金山遭難など多発し7軒に減ります。1683年は改名者が10人(気仙では4人に1人)と多くあります(岩手県史)。キリシタンとなり転宗しないものには成敗、逃亡や乱心による自殺や殺人、系図除外や捏造などあった時代。1688年赤生津人別帳には類族は2屋敷16人とあり、大石家と安部家といいます(大石氏)。

 安部家は、1600年頃から1792年まで、浪人から農民となり要職につけず、困難な時代を過ごしたことも推測されます。

 

 

東山赤生津村宗門改帳集計 岩手県史4巻304頁

 

年号

西暦

人頭

人数

類族

天災

天和3年

1683

48

502

 

中作

貞享2年

1685

55

503

 

貞享4年

1687

55

504

 

貞享5年

1688

55

495

14

元禄2年

1689

55

490

13

元禄3年

1690

55

494

13

元禄4年

1691

55

498

14

元禄5年

1692

55

498

14

元禄6年

1693

55

516

9

大凶

元禄7年

1694

55

517

 

この宗門帳は半年以下大飢饉の年に当たるものが大半を占めるが、この村では特に男女或いは年齢差によっての増減が見られず、豊・凶の影響が敏感でないと言うことができる。

 

(1)安部家キリシタンに関する情報

大石喜清氏によると赤生津キリシタンは、大石家、安部家という。赤生津の類族は、宗門改帳では1688年から1693年。類族は役100年に及ぶというがわずか5年間というのはどういうことか?

類族となった大石家では、藩の監視より、類族の広がりを防ぐため、分家が認められない。しかしながら、類族の安部家が1625年4代将監で分家ができたことに疑問があるという。1625年の分家の時点で、類族であったか、それ以降の類族であったか調査が必要。