系図では、初代十良左衛門義澄は、白鳥舘居住から浪人(士官していない武士)となり赤生津村に移り(1回目)、田畑を耕し農民になると伝えられます。2代義則は、浪人で北畑屋敷移り(2回目)、3代義則も浪人。4代将監で現在の畑屋敷に移り(3回目)、百姓で田畑を集めて繁盛するとあります。
初代が住んだ場所、2代の北畑屋敷、4代から畑屋敷とあり、住居を変えていますが、どのような理由で転居したかは不明ですが、屋敷守りの祠が拠点となるようです。分家の安部万王氏によると、大昔はあちこちに潜んで暮らしていたのではないか。安部の神社といわれる祠の調査も必要と思われます。
(1)安部家「大明神」(祠)
屋敷守り神と言われ、刀を持つ帰農した武士の像と伝えられます。昭和年代までは、住民や親せきが元朝参りなどに通い、賽銭箱もありました。月山神社神職によると大明神は、梵字があり神仏習合ではないか。歴史遺産課の高橋学芸員が調査対象としています。大昔に北上川が祠脇を流れていたと伝えます(1700年頃から北上川蛇行)。
【ご回答】--------------------------------------------------------------------------------
歴史遺産課の高橋です。 ご質問いただいた事項について回答いたします。 ①安倍家伝来の像について 像について詳しい学芸員(えさし郷土文化館野坂学芸員)に鑑定していただきました。 所見としては、「稲荷神」もしくは「福禄寿」ではないかということでした。 時代は古くても江戸後期で、近代の可能性もあるとのことでした。 木札も一緒にあったかと思いますが、「奉造立稲荷大明神」とあるので、この像は「稲荷神像」と断定してよいと思われます。木札の裏に作った年代が書いてあるかもしれませんので、可能であればご確認ください。刀を持っていたということですが、鎌かなと思います。 結論としては、稲荷神像ですので、武士とは関係なく農耕に関係する神像とみられます。
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(2)4代将監が造立「山神」(祠)
安永風土紀に、別当夘助(17代)、祭日9月12日とあり、昭和年代まで本家が祭日には幟を立てたといいます。
(3)安部の神社(祠)
18代嘉雄まで元朝参りに通ったといいます。(詳細不明)
(4)安部3軒の旧墓地
約20基ほどの墓石があり、奥には五輪塔があります。
川付近から寄せ集めたともききます。
(5)安部屋敷・田畑跡
現在の安部本家の西側、桜の木に昭和戦前まで屋敷がありました。大昔は、現在の北側に大きな屋敷があったと伝えます。大地主であり、いつの時代にか土地を分け与えたといいます。
養蚕業を昭和戦前まで続けていました。
1642年(寛永19年)検地帳(岩手県史)では、畑屋敷三四郎4町7反4畝27歩で持高3〆857文とあります。
安部家に伝わる祠・旧墓地
安部家・大明神 |
大昔の屋敷場所 |
安部本家・畑屋敷 |
昭和戦前まで旧家跡 |
安部の神社と伝える祠 |
将監・山ノ神 |
安部旧墓地 |