赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍氏から葛西家臣、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起を果した赤萩・赤生津安部一族を追っています

飢饉から人々を守った赤生津村切支丹

f:id:zyuurouzaemon:20210411180628j:plain

前沢町史による赤生津村切支丹

生母の赤生津荒谷屋敷の鈴木文一氏宅に天和3年(1683)から天保10年(1839)に至る75冊の「赤生津村高人別改帳」が保存されている。そのうち貞享5年(1688ー元禄元年)分に、赤生津村人口494人、内類族14人男8人女6人と書かれている。類族はキリシタンの子孫で、この改帳によると赤生津にもとキリシタン家族があったことがわかる(特に屋敷名を秘す。)

〇〇屋敷 古切支丹類族

 一 類族 伯父 才三 49才  一 類族 女房 36才 一 類族 孫女みや 27才

 一 類族 次男 三郎 19才

〇〇屋敷 古切支丹類族 

 組頭 久作 49才(久作は類族にあらず)

 一 類族 女房 43才 一 類族 姉女まん 19才 一 類族 次男 久内 14才

 一 類族 三男久七 10才 

 一 類族 弟 26才 一 類族 弟26才 一 類族 弟37才 一 類族 女房35才

 一 類族 くに 17才 一 類族 次男 才蔵 10才 一 類族 母 65才

【県史4・193頁】貞享5年(1688)古切支丹類族として唯一人の吉田屋敷組頭久作は、延宝3年には、延宝3年には父喜平次の代であるが、寛永検地帳にはこの屋敷名が見えないことから、寛永~延宝の間によそから移住したのであろう。(元禄7年(1694)には、「転切支丹転続」)とある。 

 

 

赤生津の宿屋敷大石喜清氏によると赤生津キリシタンは、宿屋敷大石家、畑屋敷安部家といいます。

大石家によると、1782天明の飢饉では、多くの人々が餓死をする世の中でしたが、赤生津は死者をほとんど出していないといいます。大石家をはじめ村民が蔵を明け渡し(米を開放)、子どもと年寄りの命を優先する対策が村内に徹底されたといいます。その代わり30代が犠牲となり亡くなったほどであり、村内の住民福祉が充実していたといえます。

また、田畑への増水が頻繁な地域であるがために、水害に備え河川付近に住居を建てない対策を徹底されました。

さらには、北上川で遭難した船や人々を助ける仕事に従事したといいます。

 赤生津安部家にも切支丹の墓が存在しているが、隠し通しているうちに伝説にも残らなくなりました。

 類族となった大石家では、藩の監視より、類族の広がりを防ぐため、分家が認められなかったといいます。しかしながら、類族の安部家が1625年4代将監で分家ができたことに疑問があるといいます。1625年の分家の時点で、類族であったか、それ以降の類族であったか調査が必要です。

赤生津の類族は、宗門改帳では1688年から1693年。類族は役100年に及ぶというがわずか5年間というのはどういうことか?さらに人別帳からの調査が必要となります。