赤生津・安部氏の出自を尋ねて

①1590奥州仕置後の浪人、②秀吉ゴールドラッシュの混乱、③切支丹弾圧を生き延びた赤生津安部の祖を探求しています

白鳥八郎の血を継ぐ白鳥舘・東舘城主

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 東磐井郡史には、白鳥八郎の後裔に白鳥民部少輔、そして天正の奥州仕置により没落後は、赤生津宿屋敷つまり大石家に血が引き継がれるとある。大石家の墓石にはこの覚書が記されていた。

また、葛西研究によると安部と大石家は同族関係とみられている。 

 

 

〇大石家の墓石に刻まれた家譜

 

大石家の覚之事

家譜と書状を史実に検証して

 

大石家の者、清和天皇後裔胤、源氏也。源八幡太郎義家の孫新田義重の子義國(範)が山名を名乗り、四代目の山名駿河守義信が赤生津の初代也。義信は、奥州平泉藤原氏に仕え衣川守護役、東磐井郡赤生津居城し、知行二千二百貫也。文治五年間(1189年)四月、衣川合戦、源義経公万也。合戦敗北、以後津軽行岡にて建久二年(1191年)七月八日討死。義信妻白鳥八郎行任後胤故、子義忠は氏を白鳥に改める。四代義盛赤生津城退去し白河結城家に仕え、九代民部少輔義則、結城家を辞し、南朝北畠顕家公に仕え、多賀城、霊山(大石村)に勤め、後に正平元年(1346年)葛西家に仕え、先祖の旧縁で赤生津城に再居住する。

 十二代大石勝茂は伊達郡大石村(霊山)城主大石蔵人の二男也。正平二年(1347年)霊山陥落し南朝衰退期、十代光顕の娘を妻とし赤生津分地、当城家老役。慶永(応永)三十年(1423年)九月七日卒。以後九代赤生津を知行し、天文年間(1532-1555年)十九代義勝は、柏山家に準ずる勢い、天文二十二年(1553年)十月七日卒。葛西家より永代知行感謝。二十一代義氏は天正十八年(1590年)秀吉奥州仕置により赤生津城落城、当家白鳥の名跡を継ぎ民間に下る。厳酷な仕置と幕藩体制の強化の元、当家が断絶を逃れ得たのは、此偏に先祖の縁による。以後宿屋敷として役を果し続け、三十二代茂右衛門、三十三代重吉は、幕末明治期、奉仕、篤志、勤行して、見事資産を使いきり、三十五代茂が苦学力行して、宿屋敷を守り、農林技師として養蚕業を究め、沖縄では、養蚕振興の父と慕われた。戦後、茂は、昭和二十二年生母村長になり村を活かし、同三十年村を閉じる役を、宿命として終える。

当浄円寺とは、創建以来、深い縁があり、墓所も唯一本堂に接していたが、此度、新たな縁の元、この場所に墓所を改める。御仏の御加護と御先祖様の御冥福を御許しを祈念し、合掌。

 平成十三年七月一日 茂の三男喜清之記