赤生津畑屋敷安部家旧宅跡に咲く桜
【草稿】
再調査が令和2年8月からはじまり、安部小次郎に関する調査をすすめたところ、一関赤萩阿部家の後裔の方とお会いすることができました、さらには、初代安部外之介氏から現在までの、没年が示された墓標と巡り合うことができました。これにより、安部小次郎の没年が特定され、赤生津安部の祖の生没年が見えてきたところです。
結果から申し上げると、二人はほぼ同年代であることが推測されます。
確定ではありませんが、同一人物と思われる推測が成り立ちます。
①赤生津安部初代の生没年の推測
十良左衛門義澄 およそ1568年生、1638年没
奥州仕置き1590年の時は、推定で初代十良左衛門義澄22歳、2代十良左衛門義則が3歳となる。
〇根拠
4代将監(惣右衛門)が組頭名簿(岩手県史4巻)により1625年生まれ
〇1代当たり遡り年数
1世代19年
〇1代当たり年数の根拠
・安部小次郎の実家、赤萩下袋屋敷1代(小次郎祖父の外之介)から5代までの平均が15.6歳、1代から10代まで平均が14.1歳
1代(から次の代までの差)22歳、2代23歳、3代15歳、4代25歳
・畑屋敷安部家の戸籍証明により14代から19代の年代間が平均19.8歳。平均年齢72.5歳
推定 | ||||||
生年 | 没年 | 1590年齢 | ||||
世代間年齢差 | 19 | 年(推定) | ||||
初代 | 十良左衛門義澄 | 1568 | 1638 | 22 | ||
2代 | 市良左衛門義里(浪人) | 1587 | 1657 | 3 | ||
3代 | 十良左衛門義則 | 1606 | 1676 | |||
4代 | 将監(惣右衛門) | 寛永2年 | 1625 | 1695 |
【赤萩下袋屋敷 戒名碑卒年より積算】
平均寿命 | 70 | 歳(推定) | |||
1590年齢 | |||||
直系 | 没 | 差 | |||
1外記之助 | 天正18年7月10日 | 1590 | 22 | 70 | |
2上野 | 慶長17年9月16日 | 1612 | 23 | 48 | |
3大学【兄】 | 寛永12年4月9日 | 1635 | 15 | 25 | 左近【弟】(小次郎重綱) |
4豊前【兄】 | 慶安3年8月27日 | 1650 | 25 | 10 | |
5太郎兵衛 | 延宝3年12月7日 | 1675 | -7 | ||
對馬 | 寛文8年4月20日 | 1668 | 3 | ||
太郎兵衛 | 寛文11年6月20日 | 1671 | 31 | ||
太郎右ェ衛門 | 元禄15年正月10日 | 1702 | 17 | ||
惣左エ門 | 享保4年12月17日 | 1719 | 8 | ||
太郎兵衛 | 享保12年2月14日 | 1727 | 4 | ||
治兵衛 | 享保16年2月29日 | 1731 |
安部小次郎は、3代大学(1635年卒)の弟にあたります。赤萩安部本家に聞いたところ、小次郎の墓は赤生津にあるのではないかと言います。
②安部徹良氏による赤生津安部初代の居住した年の推測
1538年から1554年の間(小次郎が居住し奥州仕置きで去る1590年よりほど遠い)
〇根拠
5代兵部(三四良)が御引竿を受けた1642年(生没年ではない)
〇1代遡り年数
最小22、最大26年
代 | 先祖名 | 遡り最大 | 遡り最小 |
26年 | 22年 | ||
初代 | 十良左衛門義澄 | 1538 | 1554 |
2代 | 市良左衛門義里(浪人) | 1564 | 1576 |
3代 | 十良左衛門義則 | 1590 | 1598 |
4代 | 将監(惣右衛門) | 1616 | 1620 |
5代 | 兵部(三四良) | 1642 | 1642 |
令和2年2月に、小次郎の祖父外之介を初代とする一関赤萩阿部家の没年が明らかになったことで、新たな展開に入ることになります。
安部徹良氏が、亡くなる前に、試算から小次郎は十郎左衛門でないと結論づけましたが、これは、否定させていただきたいところです。
1590年奥州仕置きの際、小次郎=十郎左衛門は、推定22歳であり、
3歳の2代目十郎左衛門がいたという試算になります。
ただし、1世代の年齢差を19歳として、4代将監の生まれ年1625年(岩手県史による)を基にした場合です。