赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

畑屋敷墓碑から浮かび上がる赤生津安部祖

安部家旧墓地には約40から50基の墓と五輪塔が2基あります。初代十郎左衛門(推定1838卒)から16代幸蔵氏(昭和18年3月5日卒)までの先祖の霊が眠っております。 五輪塔の詳しい言い伝えはありませんが、武士であった初代、キリシタンを弔ったものではないかと考えます。戒名には禅定門、禅定尼、居士が多く、霊格の高い先祖が多いと思われます。

後継者が離れていくような時代となりましたが、今一度、感謝の念をいただき、先祖の功績や苦労を振り返らなければならないと感じています。

 

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1673年(延宝元年)卒 清室道覚禅定門

3代十良左衛門義則(兵庫)と推測されます。

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1691年(元禄4年)卒 月窓妙桂禅定尼 

4代将監(惣右衛門)の妻でありましょうか?

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    推定生年 推定没年
初代 十良左衛門義澄   1568 1638  
2代 市良左衛門義里(浪人)   1587 1657  
3代 十良左衛門義則   1606 1676  
4代 将監(惣右衛門) 寛永2年 1625 1695

 

 

安部家旧墓地で読み取れる初代に近い墓標から「禅定門」「禅定尼」の戒名が多いことがわかりました。1600年当時は、武士や在家の僧につけられる戒名ではないかと思われます。過去帳は、残念ながらありません。

 

この墓地にはキリシタン墓碑は2基あります。

大石氏によるとキリシタンの墓は、藩により川に投げ廃られたといいます。そのあと拾い集め戻したといいます。安部家でも「川から寄せ集めた」?と言い伝えがあります。

 

畑屋敷安部家や寺(1700年代)の火災消失から残念ながら、歴代先祖の戒名を手に入れることが困難となりました。残る墓石から読み取れるだけの霊位を書き取りました。

 

正徳元年(1711年)●禅定門

享保9年(1724年) 摩尼完珠禅定門

覚翁昌起信士 正月8日

文久3亥年1863年)6月19日 禧意信負大姉 阿部義右衛門

耕雲智日大姉 阿部長松

文化12年(1815年) 雪秱了定信

心静貞大姉

空月會海香大

明治20年 得室明壽清居士

安其實禅定門

禅時栄福童子

清厳浄荘信士

是覚信女

胆江文童

茂眞

雪厳信雪

空月普

 

約40から50基あるうちの3分の1ほどしか読み取れませんでした。キリシタン墓字のある戒名も読み取ることができませんでした。