赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍氏から葛西家臣、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起を果した赤萩・赤生津安部一族を追っています

御家断絶の危機に「安部小次郎」から「安部十郎左衛門」に改名はありうるか?

「安部小次郎」から「安部十郎左衛門」を同一人物と仮定すると生没年は次のとおりです。

 

  安部十郎左衛門義澄 = 安部小次郎重綱

  推定生年1568年 推定没年1638年

 

【年齢推定の基準としたもの】

①4代「安部将監(赤生津)」の生年1625年から世代間年齢19歳で初代まで遡る。19歳の間隔は安部家の実際の世代間年齢を参考とするもの。

②安部小次郎の兄「安部大学(赤萩)」1635年没(寛永12年4月9日卒)に近いことを基準とした。

 

同一人物と仮定して、当時は、改名することは可能であったのでしょうか?

家系では、4代将監が惣右衛門に(岩手県史)、5代兵部が三四良に改名しています。

岩手県史では赤生津村の1683年には改名者が10人とし、気仙においては4人に1人が改名したといいます。

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赤生津にもお家断絶の危機

 「お家断絶」。 名前の通り家系が断絶されるという処分で、身分は剥奪、領地・城・屋敷も没収され、家臣は失業、家族も路頭に迷ってしまうという厳しい処分です。

 

赤生津には慶長のころ21軒あったが、1612年(慶長17年)に6軒が断絶し、1615年(元和元年)に3軒、1617年(元和3年)2軒が断絶し、合計11軒を引いた10軒だけが残りました。

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1612年の断絶処分は、1623年の仙台藩領内にキリシタン取締厳命の前であることから、1590年奥州仕置きの後、反発した武士などに対する処罰ではないかと考えられます。

1626年(寛永3年)赤生津7軒が残り(岩手県史)、宿屋敷大石家、畑屋敷安部家も断絶をまぬがれた。宿屋敷大石氏によると大石家が断絶をまぬがれたは、源氏を名乗る白鳥氏の血族であり敵対視されなかったのではないかといいます。

衣川安部の後裔を名乗る赤生津安部氏は、この断絶の危機をどう乗り越えたのであろうか。系譜を捨て、改名し、赤生津村に生き続けたとも考えられます。

1626年安永風土記には、畑屋敷先祖安部十郎左衛門と記され、赤生津には唯一の安部であり、祖としてはじまりました。