切支丹訴人に懸賞金と改名の因果関係を調べる必要があります。現調査時点では将監は類族としていません。
【岩手家のキリシタン・52頁】
1682年5月には、幕府がキリシタンに対して奉行名で「定」が板にかかれ高札として掲げられた。
定
切支丹宗門は、累年御制禁たり、自然不審なる者これ有らば申出たし、御褒美としてバテレンの訴人には銘五百枚、イルマンの訴人には銘三百枚、リカベリの訴人、同宿ならびに宗門の訴えの人には銘百枚を与える。隠し置けば、明主、五人組も厳罰にする。
1638年 矢野森渋谷太郎左衛門が仙台で鉤殺
1638年 ※同名の前沢村「竹沢将監」は、転宗してから歿し、矢作村へ葬られた。(同一人物ではない)
1640年 江刺郡へ手入れ
下胆沢郡六日入村へ手入れ
1640年 胆沢郡手入れ
【岩県史4 192】
赤生津村
1683年 長根屋敷 将監が惣右衛門と改名
平屋敷 長蔵が兵右衛門と改名
吉ヶ沢屋敷 平七が門右衛門と改名
※この年には赤生津村内で10人の改名者
1685年 改名者3人
1691年 長根屋敷 太郎兵衛が九平次と改名
(参考)
(四)讃岐高松藩関係キリシタン類族に対する地域住民の見方
キリシタン類族は、当局から所定の代まで終生事細かく監視されて生活しなければならなかった。たとえ法的に彼らがキリシタン類族の枠をはずされてからでも、キリシタン禁制の浸透の結果、民衆の間には依然として、意味なくキリシタン関係者を忌み嫌う風潮が残っていた。小豆島では、明治の初年まで「キリシタン・バテレン」という言葉が、「変なこと」とか「曲者」という意味で使われていた。讃岐高松藩関係のキリシタン類族の中に出家や剃髪者・改名者が多いのは、このような厳しい現実社会の反映であろうと考えられる。
https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/12/56-57_2_001-105_mizobuchi.pdf
(参考)
【おらしょ通信】 vol.287「怖すぎる制度」 | 長崎県