赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

胆沢川の寿庵堰、そして前沢の岩堰・明後沢堰へ開削したキリシタン

 

先人は、水不足に悩まされた胆沢の水田に水を引くために、用水路を開削し、水田を潤し、胆沢から前沢の何百、何千という農民の生活を救いました。

若柳の胆沢川から前沢の古城の北上川までおよそ25㎞あります。

キリシタン弾圧により殉教者が増えながらも、開削にあたったキリシタンの偉大なる功績といえます。


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現在は、胆沢若柳の円筒分水口があり、胆沢川から複数の用水路に均等に水量を流されています。

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後藤寿庵の寿庵堰をひきつぎ、前沢へ堰を開削した千田左馬、遠藤大学の碑は、若柳にあります。

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胆沢神社から旧若柳小学校付近を経て、寿庵堰に流れます。

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寿庵上堰と寿庵下堰が合流する地点です。

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寿庵上・下堰は、並行して流れ、胆沢の水田を潤し、やがては、岩堰と明後沢堰の二手にわかれ、前沢の地へと流れます。

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明後沢堰を伝って流れた水はやがて、古城を潤し、白山へと流れます。ようやく、キリシタンの村、六日入に流れつきました。

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二本の堰は、前沢の横断し、水田を満たしやがては、北上川へ流れつくのです。

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 1639年のキリシタンの命は犠牲となりましたが、人のため地域のために命をささげた勇気と愛は並大抵ではありません。役400年にわたり恩恵にあずかった農民は、今後も感謝を語り継ぐことでしょう。