浜田の反乱に携わり軍功により安部氏に報償が与えられたというが、浜田征伐には、安部氏だけではなく多くの家臣が参加している。
葛西氏家臣辞典には、次のように記されている。
浜田征伐に参加した者に、胆沢郡の大内、石川、佐々木、鈴木、江刺郡の羽黒堂、及川、西磐井郡の小岩、大槻、小野寺、安倍、佐々木、岩渕、千葉、奈良坂、東磐井郡の鳥畑、金野、條崎、小野寺、千葉、本吉郡の熊谷、佐藤、斉藤、菅原、山田、登米の金野、小野寺、栗原の武鑓、千葉、畠山や諸士の名前が恩賞関係の「晴信文書」に見られ、葛西史の中では最大規模の動乱であったことが実証できる。
【ウィキペディア】
(葛西氏家臣)浜田安房守広綱(はまだあわのかみひろつな)
1523年(大永3年)~1592年(文禄元年)
大永3年(1523年)、誕生。気仙地方の旗頭で陸前高田の東館城主。天正14年(1586年)の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合した。天正15年(1587年)、気仙沼の宿敵赤岩城主・熊谷直義と決戦に挑むが、主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦。しかし、翌天正16年(1588年)3月には再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北(浜田兵乱)、所領を失った。跡を三男・信綱が引き継いだが[1]、奥州仕置で改易され、葛西大崎一揆に加担。伊達政宗により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁した。文禄元年(1592年)、死去。享年70。
【検証】
浜田安房守広綱の逆意(謀反)に対して多くの葛西氏家臣が、武略(いくさのかけひき)をもって、戦った功績に対して、恩賞を与えた葛西氏の文書が25点ほどある。いずれも、葛西氏文書の真偽判別(石巻の歴史)によるとほとんどが偽書の疑いがある。
「功績や恩賞」は、武士の家譜・由来に大きな影響を与えるものである。どのような意図でこの文書が存在するか検証が必要である。
【石巻の歴史6巻259頁】
村落において「葛西」とのつながりを由緒として示すことは、直接的にその家の古さイコール家格の高さを示すことになったと考えられるのである。
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葛西古臣としての由緒を示す文書は紛失していても、その詳細については地域の人々が知っている」
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葛西に関わる文書の真偽が疑わしいという研究史上の指摘が、由緒分析の前提として問題となってきたが、一つの村落における由緒書上の中の記載には、村落内部における一定の合意=共通認識に基づく面も存在しており、偽文書として、切り捨てることはできないのではないかと思われるのである。