赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

葛西晴信の命により気仙江刺磐井胆沢から230人が参陣。安倍重綱(小次郎)の戦功は「勇略、悉く勝利」

気仙沼市史2 557】

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大守晴信は、矢作大隅守に「気仙仕置」を任命したが、その翌天正18年1月さらに気仙沼長崎館の熊谷直長に次の兵力を付与した。

 気仙・江刺・磐井・胆沢仕置

  馬上30騎(1騎に5,6人の従兵が付く)

  弓の者150人

 これは230人ほどの小部隊であるが、精鋭さと、迅速度においてある程度の戦力を持ったものであろう。

「参加した安部重綱への行賞」

将士名 安倍重綱(小次郎) 

居住地 西磐井郡赤生津

戦功  勇略、悉く勝利

行賞  黄海(一関市藤沢町黄海)5000苅

 

「参陣者への行賞」

葛西の応援軍は、館山郭内の長崎館を本営に、大守葛西晴信は城主熊谷伊勢守直資と共に軍を指揮したとみられる。また、全軍将の連絡統制をしたのは軍監小岩信定(磐井郡市野々、釣屋城主)である。小岩一党は、弟の小岩信明(上黒沢城主)・小岩信時(三迫赤児城主)が参陣した。信定・信明共に行賞として1万2000刈(この乱の行賞としては最高)を賜った。信時は2000刈である。信定の養子信鄰は佩刀桑田丸を拝領した。次に行賞順に見ると1万刈加増は羽黒堂下野守で、鹿折信濃の弟及川左馬介討ち取りの功である。また情報連絡に当たった鳥畑堅長(東山松川)も1万刈を加増された。 

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