赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

1590年葛西氏滅亡時の赤生津安部の家族構成とその行方

【当調査】

1590年奥州仕置きにより葛西没落時には、赤生津に安部は、2世帯あったと推測される。小次郎から見て、①4人世帯…父上野と兄大学、妻、その子、②3人世帯…小次郎と妻、その子。

 

赤荻下袋屋敷(袋屋敷戒名碑没年と、平均寿命70歳とした場合)

1安部外記之助(1590年没)70歳(戦死でなく7月10日に亡くなる)

2安部上野(1612年没) 推定48歳 ※系図上は浪士

3安部大学(1635年没) 推定25歳 ※系図上は浪士

4安部豊前(1650年没) 推定10歳 ※系図上は浪士

※浪士は主君を持たぬ武士 

 

赤生津安部(当該年代の下袋屋敷と畑屋敷の13代からのデータをもとに世代間年齢19歳とする)

1十郎左衛門義澄(推定1638年没) 推定22歳 ※系図上は浪人  ≒(仮定)安部小次郎※大学の弟

2十郎左衛門義里(推定1657年没) 推定3歳 ※系図上は浪人

※浪人は仕官できず職禄のない武士

※浪人は3代十郎左衛門義則までで、下袋屋敷より1代ながく武士を名乗ったことになる。

※1世代間年数は、(岩手県史4巻66)赤生津風土記の「1世代22~26年」を基準としたいが、当家系の平均19歳とした。

 

【当調査】

1590年に小次郎に子があったかどうかは、データを基にした推測であり、確証がもてない。もし、妻と子と耕作地があれば、そのまま残り、兄夫婦と子は実家(先祖の地)へもどると考えるのが自然ではないか。祖父外記之助が7月に亡くなり、8月の秀吉の仕置きにより居城を追放された。

1外記之助、2上野、3大学、4豊前の墓は、赤荻下袋屋敷に存在する。が、小次郎の墓は赤荻に存在しないという。(下袋屋敷) 

 

※柏山氏は天正18年(1590)8月、秀吉の仕置に遭って所領を喪い居城を追放された。柏山中務少輔明宗の代であるが、明宗は仙北に浪人死亡した。 

 

【浪人】

主人がいない武士は、すべからく浪人である。 徳川幕府の初期に、 豊臣系の大名の取りつぶしなどで、大量に発生する。名字帯刀は許されて、武士としては認知されていたが、その実、身分(士籍)は失われ、町人と同じく、町奉行支配下にある。仕官の口がない浪人の行く末は、内職、寺子屋の師匠、剣術指南など。

[職禄]
お役目につくと加算される。例えば、藩士の場合は、家老職につけば、「家老」という職務に見合う禄が支給される。