赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

天正15年3月13日晴信黒印の「安部外記介宛感謝状」は和談による功(赤荻下袋屋敷阿部軍司氏所蔵)

赤荻下袋屋敷の阿部軍司氏所蔵の本物の感謝状は、一関市史資料編のはじめに掲載されている。阿部軍司氏は、祖安部外記之介の子孫である(昭和58年没)。

【一関市史】

天正15年は元良大膳太夫と浜田安房守との反目から、合戦まで進展しそうになった時、その事情を調査報告し、和談に導いた功に対するものである。 

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同様の文書は3通存在する。

天正15年3月11日 晴信黒印 安部外記之介…石巻市では偽文書?

天正15年3月13日 晴信黒印 安部外記之介…

一関赤荻下袋屋敷(本家)所蔵

天正15年3月20日 晴信黒印 安部外記之介…寺崎清慶「葛西文集」

 

【当調査】

石巻市「偽文書」の件は、後世で書き写す段階で、日付が異なったり印の形やなどに疑問があるということか。

奥州仕置きで葛西氏が滅び、領地が秀吉に没収される3年前の出来事である。領地が与えられてもわずか3年で無効となった。晴信は、直前に浜田の乱に、家臣を戦で参加させ、秀吉に協力しなかったなど、この情勢を見誤ったと批判されている。

たしかに領土は一時的に与えられたかもしれないが、その功績をたたえるため、子孫が感謝状を保管したり、紛失や散財などあれば、写しを作成したのではないか。葛西政権はもはや存在しないため、公文書の再発行などできるはずがない。多少誤った文書であれ、後世が写しの文書を作らざるを得ないのは、やむをえないことではないか。現に、浜田の乱に関する葛西晴信感謝状は、一関市史、東山町、大東町気仙沼市などかかわったほどんどの家臣のいた市町村の郷土史には、重要資料として掲載されている。この功は、経歴に残り由緒となり、伊達家臣となる場合は、待遇にも影響してきた事柄である。石巻市史の編纂委員会には、もっと慎重な調査と意見をもって再度調査にあたってほしい。