赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津村「ゴールドラッシュ」と金山一揆、混乱から家断絶多数

ゴールドラッシュgold rush)とは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。秀吉が課した年貢が払えず、葛西氏滅亡後の文禄3年(1594)「金山一揆」が起こり、逃亡や金銭を巡るトラブルが起きていた。岩手県史にはこのような背景は書かれていないが、当時の赤生津村の混乱が説明できるのではないか。やがて数百年で金は取りつくされ、多くの堀子が村から立ち去り、赤生津7軒だけが残り由来となった。寛永16年(1639)の調べでは、7軒の中には、畑屋敷の安部本家が残り、畑屋敷 5代安部三四郎(兵部 改名)の名がある

 

【金産村落と欧州の地域社会】

奥州仕置きの後、豊臣秀吉は、磐井郡の金山を直接管理した。「ゴールドラッシュ」により諸国から堀子が集まり混乱や紛争が生じた。さらに年貢を賦課したことにより1594年(文禄3年)金山一揆は起きた。

岩手県史4巻68】

赤生津村風土記屋高七軒之由来(大家蔵書)

東山の赤生津村には慶長の末頃屋高(役屋らしい)21軒あったが、慶長17年(1612)中に6軒が断絶し、元和元年(1615)に3軒、同3年(1617)2軒が断絶し、合計11軒を引いた10軒だけが残った。まず慶長中には斎田屋敷左藤右衛門という者が乞食して死んだのをはじめ、館の馬場孫左衛門は穿儀をかけられて逃げ去り、杉の下隼人(はじめ木の葉)は年寄りで死に、畑北庵そうは西国詣りで行方をくらまし、東源助は他人を斬って逃げ去り、高ぬいは田河津金山で遭難した。元和元年(1615)には柿小屋左衛太郎は疫病で死に、北畑平右衛門は無尽の掛金と借金のため逃げ去り、町田但馬は気の狂った聟(むこ)に娘を殺され断絶した。同3年(1617)森田禾女(本判持)は御判金に困って逃げ去り、馬ノ森新左衛門は田畑屋敷まで金山に掘り倒されてついにたおれた。..この11人は元和3年4月9日新田刑部と四竈豊前があらためて(この両者が代官であったかも知れない)。屋高から引かれ、おそらく明屋敷になったものと思われる。この屋高が同村元和検地のそれであろうか。

 以上の11人が寛文3年(1663)にはまず小屋敷喜兵衛が原住の南部領に逃げ帰り、新地与右衛門は喧嘩して刀で殺され、堂徳内蔵介は「舟斃(ふなたおれ?)」になって死んだので、寛文4年(1664)6月10日大蔵次兵衛と内馬場次左衛門が検めて屋高から引去り、結局宿屋敷(肝入)茂右衛門・三四郎(※5代安部兵部 改名)・竹内門右衛門・箱根与平・西掃部・畑北助九郎・東源四郎の7人だけが残った。この7人は寛永16年(1639)9月13日、沼辺甚左衛門と大松沢甚九郎の両名が調べたと記している。この屋高とは年貢負担の単位(役屋を示すものと思われるが、つまり「日形考古史録」)にも見るような人足や家役を有するウものであろう。然るに同村寛永19年(1642)9月2日の検地帳には、25人の人頭が記され、そのうち入作と家中を除けば15人の百姓があるから、寛永4年(1627)以後立てられた百姓(8人)を含むようにも思われ(寛永4年は、若林城の取立てや、大松沢村など郷村組織にも一つの契機になっている。)、寛永検地帳の本百姓・新百姓と区別する手掛かりにもなるようだが、確かなことは言えない。なお慶長に廿一軒、寛永末に15軒とすれば、人頭は増加しなかったことになるし、家中を入れてもちょうど同じ位である。