赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍氏から葛西家臣、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起を果した赤萩・赤生津安部一族を追っています

平泉町長島「月舘大師堂」は、中尊寺開山の慈覚大師円仁の石像か

 

畑屋敷から南に1.5㎞には、天台大師の12世紀石像があります。慈覚大師円仁は天台宗を東北に広め、黒石寺再興や中尊寺などにも関わりました。白鳥舘の対岸であり、なぜこの地に安置されたのでしょうか。黒石寺の慈覚大師円仁像は木造で寺に安置されています。

大師堂の付近には、古戦場と伝える場所がある。朝廷軍の北上川渡河の上陸地点として「赤生津(奥州市前沢生母)附近」があられている。その理由に「赤生津の人々は征討軍と交戦したという伝説がある。身を隠したという大きい石もある」

安部氏時代の戦の犠牲者を弔う石像なのでしょうか。阿弖流為の時代から安部氏、そして葛西氏の時代にも戦地となったのでしょうか。

 

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 月舘大師堂
月舘大師堂には、伝教大師最澄)と伝えられる石像があります。 弘台寿院(現中尊寺)に運ぶ途中、 現在安置している場所で動かなくなりその場に安置したと伝わっております。昔から天然痘の仏として病気撤退を祈願したと言われています。また、白鳥舘遺跡北上川対岸に位置し、ともに平泉の浄土世界の北の結界とも言われています。

 

【人物業書 円仁290】

 慈覚大師円仁

東北地方における慈覚大師の伝説は、なんらかの形で征服された土地の霊と犠牲になった人々の死霊を祈り鎮めるための宗教政策が反映しておりそこには東北の地を中央の権力が掌握していくなかで生みだされた政治と宗教の相互補完的な関係がみられるという見解がある。ここに指摘されている犠牲者は、蝦夷の人びとばかりではなく、下野の国をはじめとして東国から移住させられ、あるいは逃亡してきた民衆をふくめてもよいだろう。円仁の目指したところは、犠牲者の死霊の鎮祀にかぎらず、現に東北の地で暮らしている人びとの「福利」のためであり、かつ「鎮護国家」のためでもあった。

 

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明治廿七(17)年に建てられた、「石造瑞垣寄附人名」に「葛西豊之助」の名がある。葛西豊之助は、明治30年から31年に長島村長を務めている。