赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

1618兵農分離による農民の改名。国名官名を称することが禁止に。赤生津安部家では初代から5代が改名

岩手県史3・927】

士農分離に伴い、殊に農民は国名官名を称することが禁ぜられることとなる。元和4年5月8日、東山八沢本郷の、採鉱関係の士分数名が、仙台城下に召集され、金掘鑑札の納付、苗字官名の廃止改名を迫られた。

峯屋敷。山口土佐は東左衛門と改名して・・・

右の例は、最下級武士等の、帰農して、名をも改めた一例である。

 

【当調査】

畑屋敷の先祖や安部小次郎にも国名や官名と思われる名前が見られることから、帰農する際に、農民にふさわしい名に改めざるをえなく、度々改名者が見られている。

(畑屋敷の先祖)

畑屋敷初代「義澄」は、藤原氏時代の由緒にある祖先の名ではないか?初代は赤生津村に移住し「肥前」と改名すると由緒にある。

初代「義澄」は官名にありそうで、「肥前」は国の名である。

2代「義里」3代「義則」も官名にありそう。

3代「兵庫」4代「将監」5代「兵部」も官名によくある。

(安部小次郎重綱の名)

「小次郎」「重綱」は官名にありそう。

 

赤生津安部系図における改名者

御百姓名簿上の畑屋敷先祖は、1十郎左衛門2兵庫3将監4兵部であり、岩手県史では、4代将監の改名が見られる。初代に安部小次郎があてはまる場合には、系図上の十郎左衛門となることが推測される。なお、系図上の初代「義澄」「肥前」は、地方史に見つけることはできていない。系図以前の口碑や憶測も含まれる。

当初名 改名後 根拠
  【推測】義澄、肥前は伝説上の人物    
初代 【推測】小次郎重綱 十郎左衛門 系図
2代 十郎左衛門 市良左衛門義里 系図
3代 兵庫 十良左衛門義則 系図
4代 将監 惣右衛門(1683) 県史3・192
5代 兵部 三四郎 系図
6代      
7代      
8代      
9代 孝内(死去) 勘太郎(養子)→孝内 系図
10代      
11代 幾太郎 孝内  

 

なお、切支丹類族となれば改名は手続き上困難となる。