赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

畑屋敷口碑伝承に「安倍頼時」後裔。安部小次郎の祖、赤荻下袋屋敷も「安倍頼時」後裔を伝える

赤生津安部の口碑伝承も、赤荻安部も「安倍頼時」の子孫を伝える。

 

【葛西氏家臣団辞典】

①「赤生津 安部氏」は、赤荻阿部氏の分族である。

②「赤荻安部氏」は衣川阿部氏の末裔と伝わり、一関の伏牛城(牛臥城)を拠点に栄えた安部越前(永享7年5月17日没、本貞大禅定門)は、永享年間に本吉郡唐桑(唐桑町)に移った(「岩手県史3」)。赤荻「宮田城」に拠った安倍氏もその同族であろう。

③「唐桑阿部氏」の本系は安倍頼時の末裔で、本城主は永享年間(1430頃)まで西磐井郡一関の「牛臥城」(伏牛城)に住し、阿部越前(永享7年5月17日没、本尋常貞大禅定門)の代に唐桑に移住して同地の祖となった(「岩手県史」3)。一関市赤荻の阿部一族と同系である。

 

【赤生津安部の由来は、安倍頼時の後裔】

畑屋敷の子孫の伝承では、1062年前九年の役で滅亡した安倍頼時をはじめとする「衣川安倍氏」を由来としている。系図は、1500年代からはじるが、「初代」の条には、安倍氏後裔の伝承と、初代の経歴や推察などが混在しているため、信憑性に欠けるところがある。したがって、①由緒は「安倍頼時の後裔と伝える」、②初代の伝承に「武士であり赤生津村に移住して帰農した」、③2代目「十郎左衛門」から代数有之御百姓書出に掲載とでも整理すべきである。また、由緒に「白鳥舘に居住が叶わず(白鳥村から)赤生津村に移り農民となる」とある。ここは、具体的に「天正19年(1590年)奥州仕置きにより帰農たことを加えられなければならない。

赤生津村畑安倍家之系図(子孫により推察が加えられる)

【口碑伝承と推察①】

その以前、藤原清衡、秀衡、基衡、三代に仕える

当館落城後葛西家の家臣ととなり 

葛西家没落とともに 

牛類ノ館(白鳥ノ館)に居住が叶わず

 東磐井郡赤生津村に移り田畑を耕し農民となる

初代 安部十良左衛門義澄

【口碑伝承と推察②】

奥州衣川城安倍頼時の7男なり。前九年の役に父頼時、兄貞任とともに八幡太郎義家と戦い利を失う。衣川城ついに落ちて一門討死する。(略)

義澄は肥前と改名し赤生津村に住居する。赤生津村畑安倍家の祖先である。 

 

 家系を証明する史料の流出

赤生津安部の祖「安部小次郎」が証明される唯一の史料は、軍功を評価した「葛西晴信感状」であったが、どんな理由かわからないが、書状が石巻市の毛利氏に渡っている。(外記之介の赤生津5千刈の感状は、赤荻下袋屋敷で保管)。

感状が伝承に残らないことの考えられる理由は、①天正15年(1586)に赤生津に移住、4年後の1590年に奥州仕置きで討死した(外記之介は同年死去)。1590年は、安部小次郎が現に東館に居住しているが、祖父の「安部外記助」が同年亡くなっている。討死したのかどうかの史料はない。わずか4年の滞在で村の伝承になりにくい。②没落後、仙北に一度逃れ(赤荻伝承)、赤生津に戻り改名し身を潜めた。軍功の経歴も伏せてきたため、伝承から消えた。③藩に身分を確認するため、書状の提出を求められ(寛永系図など)返されない。または、没収された。④天正16年に軍功で黄海村(一関)に土地を賞与されたが、わずか2年後の奥州仕置きで没収された。書状の価値を失い、手放した。

 

推測

①外之介の墓は赤荻にある。1590年当時の東館には、外記之介、上野、大学とその弟左近 小次郎がいた。赤生津旧墓地に小さめの五輪塔が2基あるが、1590年に外記之介と小次郎が討死した後で建てられたものか?上野、大学は赤荻に帰っている。

②隋波の菩提寺からの由緒の中に、仙北に一時逃れたとある。小次郎が赤生津に戻って帰農、父上野と兄大学が赤荻に戻ったのか?

③赤生津の白鳥氏家老の大石家では、藩に系図を提出させられたが、戻らず、明治になり持ち主のもとに戻ったという。寛永系図は、1641年から諸大名と旗本以上諸士の系譜をまとめたものである。

黄海村に与えられたばかりの土地を没収されたからといい書状を手放すことはないだろう。

 

【隋波・阿部家系図及阿部家由緒略記】その祖は遠く安部貞任にさかのぼるのであるが、後代外記之助に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃れた。その後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した。讃岐、清右ェ門の子、九左ェ門重貞(随波)の父である。