赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

【結論】葛西氏没落後、安部小次郎は十郎左衛門に改名、白鳥氏の後裔は大石氏の可能性が高い

天正15年(1587)

赤荻阿部家には、小次郎の祖父外記之介、父 上野、兄 大学が住んでいた(1)。

奥州仕置きの3年前の事であるが、祖父外記之介の軍功により赤生津に五千刈を与えられ、東館に、孫の安部小次郎が居住することとなる。

 

天正16年(1588)

小次郎の軍功から小次郎は、黄海村(一関市)に2年間異動したのではないか(2)。

 

天正18年(1590)

秀吉による奥州仕置きがはじまり東館は倒壊される。この年、祖父外記之助は亡くなるが戦死かは不明。一族は仙北に逃れたとも伝える(3)。その後、赤荻の小次郎の父 上野、子 大学は、帰農した。

 

小次郎は、黄海村の領地を没収され、父と兄の暮らす先祖の地ではなく、赤生津に移住したことも考えられる。あるいは討死したのであろうか。秀頼による奥州仕置きや再仕置きで迎え撃つ兵にも見当たらず、討死やその後の行方など地方史には残らない。

この時、小次郎は、兄 大学(1635年卒)の年齢から推定で25歳、妻がいて子があれば、2代十郎左衛門(4)は推定5歳ごろであろう(5)。

 

葛西没落後は、赤生津村は伊達藩の配下となる。白鳥舘の白鳥民部少輔の行方は知れない(6)が、宿屋敷大石家は白鳥の血を引く後裔である(7)。大石家は民間に下り、赤生津村の肝入となり、村の取り仕切り・世話役となる。

阿部民部介の血を引く大石家にとって、安部小次郎も同族であった(8)。妻子のある小次郎を赤生津に住まわせるようと世話をしたのではないか?あるいは、妻子を赤生津に残し、黄海村で討死したかもしれない。奥州仕置きの参戦に小次郎の名はない。

 

 

祖父外記之助の軍功の感状は赤荻の下袋屋敷で代々引き継がれた。しかしながら、小次郎は、自身の軍功と由緒を示す「葛西晴信感状」を何らかの理由で手放してしまった(9)。小次郎の安部家は、衣川安倍氏の末裔と代々伝わり、子孫に「先祖は安倍頼時」と伝えたに違いない(10)が、小次郎の「気仙沼浜田氏の兵乱に参戦した軍功」は、肝心の感状もなく、時代背景も含め複雑であり口碑で伝承が困難でなかったか。

やがて、兵農分離により小次郎は農民となる。小次郎の軍功は、その後の子孫にどう伝わったかは分からない。

「小次郎の軍功」は、近代まで地方史に残ることはなく、葛西氏の記録にとどまり、明治から昭和初期の間に、「小次郎への感状」が石巻の毛利氏の史料として発見されるまで、知られることがなかったはずである。

安部氏の軍功により、赤生津の東館に居住した期間はわずか3年である。奥州仕置きと兵農分離の中で、かつて葛西家であり反発するような浪人は、身を潜めている時代である。軍功の伝説も残るはずがない。証明する書状もない。家の口碑伝承もやがては、時間と共に忘れ去られ、さらには、安部家は、切支丹の弾圧を受ける運命となった。詳細については、別に触れる。このような社会情勢の中、出自を語ることは、一族を迫害や脅威に巻き込むようなものである。

さらには、「赤生津7軒」の伝説で知られるように、慶長年間(1596-1614)の21軒から断絶や逃亡、金山遭難などで7軒が残った。このような厳しい時代を、赤生津安部の祖は生きてきたのである。