赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍氏から葛西家臣、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起を果した赤萩・赤生津安部一族を追っています

刀狩を恐れた浪人は、帰農、改名、系図の隠匿四散。兵農分離と氏素性の抹殺

▼秀吉の奥州仕置

花泉町史・110頁】

流の将士の多くは、帰農離散、何れも百姓か、流浪の士として地下に潜入して再起を期したのが本当らしい。この人々は屋敷の門に「サイカツの木」(葛西が勝からもじった)を植え同志の目印にしたと今尚伝えている。

 また、菅原系譜は道方(菅原又三郎外記)の條に

天正18年8月釣野館落魄 同年10月17日佐沼合戦 同19年8月14日深谷を脱出して故郷高倉山に潜居 文禄元年3月兄をたよって内沢(金沢)に移り、同4年3月(西磐井郡)奈良坂上原に移る。慶長2年正月5日大股兵庫某が薬王山養寿院の内外で斬付け・・・云々・・・又内沢に帰って自殺した。」

 末路は憐れなものであった。葛西の領地は木村吉清の領地となり、三百人に及んだ城舘持の武士は、離散か土着の民となり、地頭政治に終わりをつげた

 

一揆と再仕置き 

花泉町史・111頁】

秀吉の天下統一の諸方針は着々と関東以北に伸び、(イ)一国一城主義により、群小の城主・館主崩壊させる。(ロ)太閤検地を実施し、租税の増収をはかる。(ハ)刀狩(天正16年7月)・土豪百姓の武装化を制える。氏素性を抹殺して、兵農分離をはかる。これにより、群小地頭は追放され、これに随身していた地侍も百姓に身をやつしたり、他国に逃げ、深山に隠れたり、路頭に迷う浪人・家族下人の不平不満の声が村々を圧した。この渦中に木村吉清の家人共が、成り上がりの風を吹かせたから、たちまち浪人百姓が日夜の不満を爆発させた。その間の消息を伊達治家記録から拾ってみる。

 

花泉町史・116頁】

「木村伊勢守吉清父子の鎮撫軍政について」

旧浪人を指して「田舎ノ果テ夷共」と侮り、「なで斬(たくさんの人を、片端から切り捨てること)」「強盗」「掠奪」「強姦」「放火」押し込み」「米穀の盗み強奪」を昼夜にわたり行った。(仙台秘鑑)だから。浪人・町人・百姓の憤怒・怨念の緒の切れるのも当然であった。

花泉町史・118頁】

刀狩を恐れた旧浪人たちは、百姓に転落した。例えば、平奈良坂氏は葛西氏没落後は宮城矢本にのがれたり、(平姓奈良坂系図)一方大崎氏の家臣である三迫沼倉光隆は、弥太郎と名のり、その子其信(藤五郎・弥七郎)と共に、流郷金森に移住するなど(沼倉系図)又西永井高倉に佐藤十三郎信守(弥勒寺舘城主)は百姓となり地下に潜った者などが多い。そのため各家伝来の備忘記録を隠匿四散したにちがいない。これが中世の史料が少ない原因の一つであることに間違いないといわれている

 

ウィキペディア

木村吉清(旧大崎・葛西領の領主1590~1591)

武将としては小牧・長久手の戦い小田原征伐に参陣、天正18年(1590年)の奥州仕置では名淵などの戦いで敵軍を撃破、大将首を取る武功も立てた。この戦功で知行5千石から旧大崎葛西領(現在の宮城県北部と岩手県南部)12郡約30万石を与えられ、子の清久と共に蒲生氏郷与力になった。

しかし、検地を実施して年貢を厳しく取り立てたことや旧大崎・葛西家臣の地侍などを家臣に採用せず刀狩を行ったこと、さらには家中の人手不足から大量登用した浪人や俄に侍に出世した足軽・中間などのこれら吉清の家臣が領民に乱暴狼藉を繰り返したことなどから、領内に一揆が起きた(葛西大崎一揆)。吉清は一揆勢によって居城の寺池城を追われ、佐沼城に立て籠もった。やがて領内の諸城も一揆勢によって落城し、吉清は子の清久とともに佐沼城へ閉じこめられる形となった。やがて蒲生氏郷伊達政宗が援軍として駆けつけ一揆勢は退散。吉清父子はようやく窮地を脱したが、一揆発生の責任を問われて領地は没収された。

 

 

 

【葛西氏・大崎氏旧領の新領主・木村義清への反発】

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