白鳥氏家臣大石家 大石喜清氏にきく 2021.6.6
大石家の系図は、記録では寛永年間(1624-1645)に紛失とある。おそらく取り上げられた。明治になってから商人の手元から入手したという。仙台藩が廃止されたとき、廃棄書類あるいは、払い下げを、収集家が買い取り持ち主に売ったのではないか。大石家は赤生津東舘の家臣であり、城主が異動で変わっても代々家臣を務めた家系である。
安部小次郎の場合
赤生津住人安部小次郎は、東舘家臣の大石氏とともに東館に勤めた。葛西没落後に大石家が系図を没収されたのであれば、同じく安部小次郎の子孫も系図を没収されたのではないか。今も系図の初代と由来がないのはそのためではないか。そして小次郎宛葛西晴信感状も没収されたのではないか。没収か提出を求められ返還されないものと考えられる。寛永年間には幕府では「寛永諸系図」の作成がすすめられ旗本以上の家臣が系図の提出を求められた。ただし、1624-1645年は、赤生津安部は4代将監でありすでに帰農している。葛西旧家臣も調査がすすめられたのであろうか。関係諸系図と関係あるかどうかはわからないが、推測は次のとおり。
▼大石家と同様に、4代将監が寛永年間(1624-1645)に系図と感状を取り上げられる。
▼仙台藩で保管され、藩が廃止され明治(1868)になるときに、書類廃棄、払い下げなどの際に、商人の手元に渡る。安部小次郎の葛西晴信感状は、価値があることを知り、毛利家が買い取り保管した。
▼収集家などの商人は、大石家の存在を知り系図を何点か売った。
寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)は、江戸時代の寛永18-20年(1641年-1643年)に江戸幕府により編纂された、諸大名と旗本以上諸士の系譜集。
編纂の経過
徳川幕府第三代将軍家光の命により、幕府は寛永18年(1641年)から、若年寄・太田資宗(総裁)、儒者・林羅山(編纂主任)に諸大名・旗本以上の幕臣の諸系譜の編纂事業を行わせた。まず諸家に対して、素材資料となる各家の系図や家譜および証拠資料(古文書)等を提出させた(呈譜)。そして、寛永19年(1642年)から林羅山の指導の下に儒者や五山の僧侶等の編集委員によって、編纂事業が急ピッチで進められて寛永20年(1643年)9月に完成、献上された。和文体本・漢文体本の2種があり、ともに総数186巻・総収録数1,400余家にのぼる大著であった。
特徴[編集]
記述内容は姓氏により、まず清和源氏・平氏・藤原氏・諸氏に4区分され各家を分類収録、巻末には医者・同朋・茶道の諸家の系譜も収められている。
赤生津安部小次郎の感状の行方 推察
<調査メモ>
小次郎の感状があり、系図に小次郎の名がない。
小次郎は十郎左衛門に改名した記録がない。
この事実が知られれば、追跡される。
隠蔽し、系図に小次郎の名がないまま引き継がれた。
感状は、何らかの理由で手放し、経路は知れないが収集家の手に渡った。
感状を手放した時期は、由緒に感状の内容が示されていないため、初代から間もない時期ではないか。あるいは、感状は何らなの理由で、赤生津安部家では受け取っておらず、葛西氏の本拠である石巻に保管されていたのか。
誰がいつ地方史に感状を提供したか。
1700年代に提出の伊達世臣民家譜には小次郎感状が示されている。
感状の内容を公開したのは毛利氏。昭和30年代に岩手県史に
東舘(赤生津城)住人ではなく 赤生津住人安部小次郎に葛西晴信から感状
勘左衛門(小平治重頼)1661生―1757没
6代孝内のとき
1700年 伊達世臣民家譜へ提出 小次郎感状の事実あり…赤生津小次郎を知っていた
安永年間(1772~1781)に仙台藩に提出
11代幾太郎(1765-1835) 初代から11代の系図(畑屋敷) 推測
安永風土記は幸内までこれを基に作成か
14代幸治(1824-1891) 2代から14代の系図(山ノ神屋敷) 不明
17代夘助(1901-1970) 初代から17代の 推測
大正~昭和期に子孫の手を離れ、毛利が入手した可能性が想定
昭和38年 岩手県史 毛利氏所蔵により明らかになった