安倍家系図
磐井東山赤生津邑畑家舗安倍家之系図
虫食古損二附書写叓
安倍頼時之七男比與鳥七郎則任衣川厨川西城落城ㇾ而之没降人成伊澤白鳥邑午(手)類之舘住居先室厨川之堀沈没(俊)室ヲ女取テ其子孫同所良久其後(俊)鎮守府将軍藤原之清衡ヨリ三代使エリ 葛西臺破守清重家臣ㇳナリ拾七代使エリ 葛西没落後成 午類之舘二居住不叶二而 東磐井赤生津邑二移ス 其治代安倍肥前ト云フ
㊀安倍肥前
伊澤白鳥邑午類之舘二住居不叶而東山赤生津邑二移 浪人ス 愛宕(堂)造立則比所住居也
㊁安倍市良左衛門義里
同苗肥前嫡子也 同邑比畑家舗移 浪人也
㊂安倍十郎左衛門則
同苗市郎左衛門嫡子也 同所二住 居同浪人也
㊃安倍将監
同苗十郎左衛門嫡子同邑畑家舗移 百姓成 多野谷地田畠ヲ集繁盛ス 山神権現造立跡人頭ヲ嫡子兵部譲 同邑長根家舗二男三男二人夫婦諸共隠居ス
㊄畠屋敷兵部
安倍将監之嫡子也寛永拾九年御引竿之改名三四郎成 多之田畠引請繁盛ス
本書至而古損虫食相見涅不申其所相落作叓
【当調査】
令和3年6月6日 長根屋敷(下屋敷)安部勝氏宅に将監の墓を拝見するため訪問の際に、系図を見せられる。仏壇の下にあったという。木箱に他の古文書とともに収められていた。系図は2通あり、1通は写し(系図虫食のため写し作成)のようであり、5代兵部まであることから、推定1645-1715年のものであろうか。
【新たな由緒】
初代は「肥前」であり、「義澄」とない。
葛西家臣でありことが明記されている。
白鳥邑午(牛)類之舘に居住していた。
葛西没落により赤生津で浪人となる。
愛宕堂を造立した。
【今後の課題】
白鳥舘城主は、白鳥民部である。白鳥舘にいた安倍は住人であろうか。白鳥氏であろうか。