赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

新たな仮説「1481年の 照井太郎隆定(又は子)が安倍外記之介」?

 

【当調査】

1158年、赤荻・荻荘系図に「佐沼城(登米郡)城主 安倍外記之介」。照井高直(照井子孫)は佐沼城に居住で征伐の難を避け照井堰を開削に来た。1300年代は消息不明。

 1481年、照井忠基の後裔が平泉に戻る。1493年には荻荘と共に開削。その後の消息は知られていない。

荻荘家は、照井氏とともに照井堰を開削した。

荻荘家の系図には安倍外記之介が「佐沼城主」とある。

登米郡の佐沼城は、照井高春の子孫「照井太郎高直」が1185年築城したものである。

佐沼城主の名には、安倍外記之介はない。が、照井氏から安倍(外記之介)に改姓したのではないか。1500年代から照井氏の子孫の行方は地方史にない。

ということから、照井高泰かその子が安倍外記之介ではないかという新たな説とするものである。 

 なお、安部外記之介(1590没)の出自は不明である。宮田城主という説は、赤荻・荻荘家の嫁婿であることから誤りとした。

 

岩手県南史談会研究紀要30集・63】

一関赤荻・荻荘系譜の一考察(千田一司)

荻荘家16代 正綱の子

女 鶴子 佐沼城主 安倍外記之介の妻。天正18年葛西氏滅亡の際浪人生家に帰る。文禄3年甲午6月5日没す。(下袋阿部氏の祖)

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【「幾星霜(照井土地改良区)・108・岩手業書 磐井第2巻「北照井堰】

1493年(明応2年) 照井太郎高直(一作高春)

藤原秀衡 照井太郎高直(一作高春) 登米郡佐沼城に居り藤原氏征伐に難を避け五串村骨寺に居住し其後葛西氏に仕ひ田野開拓の事を擔住せしめられ豪族となり明應2年當時の照井太郎計畫して五串村両岸に磐井川寄り穴堰を開き南猪岡邑水源より三黒沢一二三の關迄灌漑する南照井堰を称し北五串村水源より五串赤荻山目中里に漑ぐものを北照井堰と称す…略

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【佐沼城】http://joukan.sakura.ne.jp/joukan/miyagi/sanuma/sanuma.html
宮城県登米市迫町佐沼字内町

創築者  照井太郎高直か

主要城主 葛西・大崎・石川・木村・津田・亘理各氏

築城年  文治年間(1185~90)か

沿革
佐沼城は、かつて城の鎮護を願って鹿を生き埋めしたことから「鹿ヶ城」とも呼ばれる。
創建に関しては、文治年間(1185~90)に藤原秀衡の家臣である照井太郎高直が居城としていたと伝わるが、照井太郎の伝承は周辺各地に伝わっているため定かではない。南北朝時代には、北畠顕家が戦死した暦応元年(延元3・1338)頃、葛西氏が寺池城と共に佐沼城を拠点にしたものと思われる。

-葛西氏と大崎氏の狭間-
室町時代の半ば頃になると佐沼城は大崎氏によって支配され、天文年間(1532~55)には大崎氏の家臣である石川氏の居城となっていた。しかし永禄年間(1558~69)の頃には再び葛西氏の支配下に置かれており、史料によって記述は異なるが、葛西・大崎の両氏によって出入が激しかったと推察される。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって葛西氏・大崎氏はその所領を没収され、両氏の旧領には木村伊勢守吉清が置かれた。
しかし葛西氏17代晴信はこの仕置に対し抵抗し、検地のために下向して来た木村吉清・蒲生氏郷らの軍勢に対し戦いを仕向けた。葛西勢は和淵・高清水・寺池などの各地において戦火を交えたが敢え無く敗れ、晴信は佐沼城で自害して果てた。(しかし史料によっては晴信はこの後も生存していたとする説もある)

-伊達氏の支配下へ-
その後、あらためて葛西・大崎氏らの旧領を支配した木村吉清であるが、これに反する葛西・大崎氏の旧臣らは天正18年(1590)10月に蜂起した。この一揆は気仙・岩手沢を皮切に次第に領内に拡がり、これを抑え切れなかった結果、木村吉清父子は佐沼城に籠城することになった。
一揆の拡大に対し、浅野長政蒲生氏郷伊達政宗らに一揆鎮圧を命じた。政宗は12月24日、佐沼城に出陣し、一揆勢を蹴散らして木村父子を救出した。この功によって政宗は米沢の替わりに葛西・大崎氏の旧領を与えられた。翌天文19年(1591)6月、政宗は再び拡がっていた一揆勢の鎮圧に乗り出し、未だ一揆勢が普請していた佐沼城を再び攻略、徹底的な掃討の結果、7月には佐沼城は落城した。