【http://sendai-oldlocal-histry-takakura-kiyosi.saloon.jp/terui.htmll.htm】
伝承では藤原秀衡の家臣照井太郎高春が用水路の開削に着手し、その子孫高安が荻荘荘司大江氏と結んで造り上げたと言います(西磐井大肝入大槻久右衛門書上)。また藤原氏滅亡で主を失った照井氏は秋田に逃れ、数代を経て照井隆春・隆定は、先祖の地で身をたてるために平泉に向かい、隆定は千手院に引き取られ、隆定の孫掃部左衛門は先祖の偉業を知り、承応元年(1652)に堰を改修するために工事に乗りだしました。しかし工事人足の支払いに藩のお救い米50石を流用し、このことが咎められ太田川に架かる橋のたもとで死刑に処せられたと伝えられています。ともあれ「照井堰」「大江堰」の名称はこれらの伝承をもとにしていると思われます。
【「幾星霜(照井土地改良区)・473】
1158年 照井太郎高春水路開削を企画
1174年 秀衡公家臣・照井太郎高春照井堰水路開削計画
1185年 照井太郎高直 佐沼城築城、照井太郎高春用水路開削
1187年 照井堰の基礎が出来る
1189年 泰衡義経を襲う、照井太郎参戦
1189年 泰衡の将照井太郎高直、阿津樫山の戦いに参戦、柴田郡韮神山にて討死。高春・高泰両名文治の役の難を避け五串村骨寺に居住、後葛西氏に仕え田野開拓に励み豪族となる
1189年 照井太郎忠基 泰衡に従い二井柵に逃れ、泰衡落命後秋田県北に住む(後裔が高春と)
1195年 照井太郎高春照井堰大江堰開削
1208年 高泰・荻荘荘司と共に磐井川両岸に穴堰開削し、山目境まで掘削
1221年 照井三郎照井堰試堀のため伊澤穴山用水堰開削
1225年~ 藤原家臣照井氏穴山用水堰開削
【不明】
1308年 照井太郎供養碑(宮城県桃生郡赤生村)徳治3年の刻字
【不明】
1481年 照井忠基後裔、照井太郎隆春 隆定 親子祖先旧領(白鳥照井館)訪ね中里前堀にて前堀にて行き倒れ、隆定平泉千手院へ引き取られる、後、父の墓碑建立
1492年 照井太郎胆沢穴山用水堰小松入り口開削
1493年 照井太郎、照井堰開削と前後して、胆沢馬留穴堰掘削
1493年 高安、荻荘荘司と相諮り私費にて磐井川両岸に穴堰を通し、山目、一関方面へ導水、右岸を南照井、左岸を北照井堰、後右岸は大江堀、左岸南照井堰
【以後、照井氏の名は地方史にない】
1652年 大崎掃部左衛門(大肝入)水路堀更 ※大崎掃部左衛門は宮城県大崎城主末裔