赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

佐沼城の住居人

【仙台領内古城・館2巻・324】

文治(1185-)年中 藤原秀衡家臣 照井太郎直高 住居仕り

文明(1469)頃  佐沼右衛門佐平の直信 住居仕り

天文(1532)年中 大崎御家臣 石川四郎右衛門直村法山入道 その子豊後義誠 その子丹後義広 その子彦九郎 まで4代住居仕り

葛西家滅亡ののち大崎葛西の地12郡を、木村伊勢守吉清へ下され候。吉清こと、不正に候につき、大崎葛西の旧臣一揆を相起し候故、大閣より仰付られし貞山様が御攻めなされ、天正19年7月3日に落城仕り候。

 

 

【封内風土記旧葛西大崎領内編 

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其一、伝云、東照公とうしょうこう徳川家康)改制也、往古秀衡ひでひら家臣、照井太郎高直てるいたろうたかなお居也、後土御門帝、文明之比、佐沼右衛門佐平直信さぬまうえもんかみたいらのなおのぶ之、後奈良帝、天文以来、大崎家臣、石川四郎右衛門直村法山いしかわしろううえもんなおむらほうさん、其子豊後義誠ぶんごよしあき、其子丹後義廣たんごよしひろ、其子彦九郎ひこくろう(諱不伝)四世相継居之、大崎家亡滅之後、太閤秀吉たいこうひでよし公、賜大崎葛西之地十二郡於木村伊勢守吉清きむらいせのかみよしきよ吉清よしきよ政事不正、大崎、葛西之旧臣等起一揆貞山ていざん君(伊達政宗)受太閤たいこう之命之、後陽成帝、天正十九年七月三日落城、誅彦九郎(佐沼彦九郎)、其後為貞山君之封内、賜本邑於津田民部景康つだたみぶかげやす而居之、其後孫丹波定康たんばさだやす罪、没収采邑、今上帝、寶暦七年七月、賜亘理要人倫篤わたりようにんみちあつ之。

 

【北上町北上漁港(相川地区)漁業集落環境整備事業に伴う要害館跡の発掘調査結果

9700_2_宮城県文化財発掘調査略報.pdf

佐沼城について

文献・伝承

佐沼城は別称鹿ヶ城とも称す。 このことに関し、亘理伯耆家老 矢内興左衛門の書上げた「就風土記御用亘理伯耆在所佐沼 村扱無之分書上」(迫町史資料第一巻所収)では「当居館往古古鹿を埋め城の主に相祭り侯に 付鹿ヶ城と唱置候由」と記している。 また、「封内風土記」 は、佐沼城の由来について「往古秀衡家臣。照井太郎高直所レ居也。」と 伝え、さらに「文明之比。佐沼右衛門佐平直信住居レ之。天文以来。大崎御家臣。石川四郎右 衛門直村入道法山。其子豊後義誠。其子丹後義広。其子彦九郎諱不レ伝。四世相継居レ之」と 記し、同様の内容は前記の「就風土記御用亘理……書上」等、諸書に認められる。 本城が史上著名となるのは、秀吉の奥州仕置、葛西・大崎一揆にかかわる戦闘の場となる天 正18、19年の事である。 天正18年(1590 年)小田原不参の理由をもって葛西・大崎領は秀吉によって召上げられ、木 村吉清、清久父子に与えられた。この接収に対して葛西氏は抵抗を試み、和渕・寺池等におい て戦ったが敗れ、佐沼城に籠って、木村軍、蒲生氏郷の軍に対し抗戦したが敗れた。この時を 以って葛西氏は滅亡した。その後木村父子は領国に入ったが、その支配の暴政さのゆえに、同年 10月、旧葛西領の胆沢・気仙・磐井の諸郡の勃発を皮切りに、一揆が葛西・大崎領全域に広がり、 木村父子は佐沼城に包囲された。この時は、伊達政宗等の救援軍に対し、一揆軍は戦わずして 109 佐沼城を去り木村父子は救出された。 しかし、翌19年、一揆軍は再び佐沼城に拠り、伊達軍と熾烈な戦いを行った。政宗一揆軍 の徹底的な掃討を行いこれを鎮静した。この戦いは、奥州における中世の終焉を告げる戦いの 一つであり、歴史上重要な意味をもつ。 同年秋、葛西、大崎領は政宗に与えられ、政宗は佐沼城に湯目民部景康を配した。湯目氏は 後、姓を津田と改め、津田氏は宝暦6年までこの城に在り、その後亘理伯耆倫篤が封ぜられた。 以後、亘理氏居館として明治維新となる。 以上のように、本城跡に関する文献は、中世から近世にわたって認められ、特に中世末以降 はかなり細かい記録が残っている。また藩政時代の町並の絵図も多く残っており、その中に描 かれた図によって、城そのものに関してもその様相を知ることができる。絵図には、津田家時 代のもの、宝暦9年頃のもの (登米郡史所収)、年代は不詳であるが佐沼要害図 (仙台市博物館 蔵)、栗原郡佐沼要害座敷絵図(宮城県立図書館蔵)の他に、昭和10年代に筆写したものと思 われるものであるが、享保2年(1717 年)のもの (迫町立歴史民俗資料館蔵)、宝暦7年代、宝 暦年間のもの (迫町史資料第1集所収)、等がある。 (注)その他の絵図の一つとして、現在城跡に、佐沼史跡保存会によって建てられた説明板に描かれた復元絵図 がある。これを紫桃氏は中世の復元図絵として紹介されている(紫桃:1973)が、この図は町内に在住す る沼倉徳雄氏が、氏の祖父、亘理家家臣沼倉徳衛翁の記憶によって昭和15年頃作図したもので、維新直前 の佐沼城の様相を描いたものである (昭和53年11月沼倉氏教示による)。