赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

第7報 葛西家臣安部小次郎系統と「白鳥村舘から移住した赤生津安部系統」に関する検証【第4校】

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて

第7報 葛西家臣安部小次郎系統と「白鳥村舘から移住した赤生津安部系統」に関する検証

                        

 

1 はじめに

 前沢生母赤生津地域には、安部姓が多く、古代東北の雄として名を馳せた安倍氏の子孫であるという言い伝えがある。この研究は、長根屋敷出身の安部徹良氏はじめ兄妹により平成21年から始められた。第7報では、赤生津安部下屋敷からの系図発見により、その出自は、白鳥村舘にあることを特定した。岩手県郷土誌によると、白鳥村舘周辺は、平泉藤原氏時代に、平泉の北方の守りであり、白鳥八郎泰家や照井太郎高春など一族諸武将の邸居が北上川の河道に並んでいたという。赤生津安倍氏の出自を探しながら、まだ、地方史に表れていない、地域性や史実を探求するものである。

 

2 研究目的

戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍し、葛西晴信から胆沢郡赤生津村(奥州市前沢)地内に五千苅の地を給与されている。赤生津村には、十郎左衛門を祖とする安部家があるが、赤荻安部家とのつながりは不明である(1)。

第7報の目的は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きの時代に焦点をあて、葛西滅亡後に分散したと考えられる赤荻安倍と赤生津安部の血縁としての関連性を検証することにある。また、新たな系図の発掘により、赤生津安部の出身地となる白鳥村舘の住人との関連を検証する。

なお、第6報では、試算から赤荻安部小次郎と赤生津安部初代は別年代に生きた人物であり、直接的な関係を否定する結論となった。しかし、今回は新たに先祖の年代を特定する史料を見つけたことから、初代の年代を特定する計算方法を改め、第6報の再検証を行う。

 

3 研究方法および結果

(1)赤荻安倍外記之介系統と赤生津安部系統の関係性についての再検証

 前沢町史では小次郎は赤生津から赤荻に帰農し、一関側では赤荻に帰農の史料は未見という地方史の相違点を検証する。

 

  1. 「赤荻安部外記之介系統」に関する史料

ア「伊達世臣家譜」における平士「安倍」(2)

阿倍の姓(族名)は藤原。阿倍大学 某(実名不明)より出ず。その先は不明。阿部小次郎重綱は祖先(遠祖の意味か)。重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津村に住み、五千刈の地を領す。嘗(かつて)、濱田安房守と戦いて功あり。葛西晴信感状を賜う。後、葛西家亡(滅亡)に遭い、大学流落(おちぶれて、さすらう)し、嫡男(本妻が生んだ長男)豊前 某に至る。その子は、太郎兵衛 某。その子孫は詳ならず。大学の次男、讃岐某は祖先(傍系の祖先の意味か)。その子孫は(仙台藩の)中間番士(番士は番衆、番役とも言い、交代で諸役を務める者、主として武士の警護役などで、その中間的な位置にある者か)で、今、三百石の俸禄を保持す。讃岐もまた磐井郡赤荻邑に住む。…

 

イ「葛西氏家臣団辞典」の安倍小次郎重綱(3)

赤生津安部氏祖。赤荻安倍上野守の次男。祖父外記之介の恩領を享けて赤生津に分立。

 赤生津の東城に居住。前中の白鳥氏は「白鳥城」―鵜ノ木―に撤退したものと思う。天正16年、気仙浜田氏の兵乱に参戦し、軍功によって東山黄海に五千刈を宛行われている(天正16年6月7日安部小次郎宛晴信黒印状・石巻市毛利家所蔵文書)。同18年没落して浪士となり嫡子大学の代に故地赤荻に帰農した。「伊達世臣家譜」に、重綱の孫讃岐が伊達家に仕え、讃岐の孫が小平治重貞とある。小平治が即ち伊達家に1万五千両を献金した富豪、阿部随波(老号)である。

 

ウ 赤荻阿部家系図及阿部家由緒略記参照(安部隋波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌 昭和33年1月8日)(4)

その祖は遠く安部貞任にさかのぼるのであるが、後代外記之助に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃れた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した。讃岐、清右ェ門の子、九左ェ門重貞(随波)の父である。

 

エ 岩手県史第3巻(108頁)(5)

安倍外記之介、同小次郎重綱(安部左近同一人)まで、赤生津に居住し、天正19年葛西家没落に際し、安部大学に至って、旧領地の赤荻に居住したものであろう。

 

オ 前沢町史中巻(184頁)(6)

小次郎重綱は、前年父外記之介が拝領した赤生津に住み、この地から参陣した。しかしこの安倍氏天正18年葛西没落と共に、赤生津を去り、先祖伝来の地赤荻(現一関市)に帰農している。

 

カ 「安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~」岩手県南史談会研究紀要第40集(7)

一関市文化財調査委員小野寺啓氏が、安部小次郎重綱の帰農について次のように述べた。小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。「赤生津安部氏」の祖となったとの所説は史実のように思える。赤荻・下袋安部系図では、帰農したのは安部外記之介の嫡孫・大学(小次郎の兄)である。(略)白鳥氏が東城の城主であった時期には、小次郎は東城の「住人」ではなかったのか。白鳥氏の撤退後城主となり、葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか。

 

キ 第5報「赤生津・安部氏」の歴史における「安部小次郎重綱」の位置づけに関する検討(岩手県南史談会研究紀要第42集)(8)

赤荻村の「代数有之御百姓書出(一関市史第7巻資料編(Ⅱ))」の記録にも、「小次郎」が葛西氏没落後、赤荻に戻ったことの根拠となり得る記述は見当たらなかった。

 

ク 安部外記之介が、宮田城の赤荻(荻荘)家と婚姻関係で赤生津から赤荻へ戻ったという説の検証

由緒書からいうと「安部外記之介」は赤生津に居住しており領地は不明、事績や先祖も明らかでない(5)。葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻荘家の地域に移住。姻戚関係というのは、外記之介が荻荘家の娘婿であり、妻鶴子は荻荘家19代の叔母にあたる。荻荘家17代が葛西没落3年前の天正15年に没し、さらには奥州仕置きで18代が佐沼城で敗死しており荻荘家が危機を迎えた中、赤荻安部家から大学(小次郎の兄)の妹上野が荻荘家に嫁いでいる。なお、荻荘家は、藤原泰衡の唯一の子孫であり、現在まで38代の系図(県南史談会研究紀要第30・35集掲載)がある(9)。

ケ 石巻市役所所蔵「赤生津住人宛安部小次郎宛葛西晴信感状」

令和3年5月の調査により、天正16年(1588)安部小次郎宛葛西晴信感状が、石巻市役所に保管されていることを確認した。石巻市在住の収集家毛利惣七郎(1888-1975)が、石巻市役所に寄付し毛利コレクションとなっているが、その経緯は不明である。

 

  1. 白鳥村から移住した「赤生津安部肥前系統」に関する史料

 

ア 令和3年6月の調査により発見された「磐井東山赤生津邑畑家舗安倍家之系図」の検証

 

安倍家系図

 磐井東山赤生津邑畑屋敷安倍家之経図

 虫食古損候附書写候事

安倍頼時之七男比與鳥七郎則住衣川厨川両城落城シ而之後降人ト成 伊沢白鳥邑手類之舘住居シ 先室厨川之堀沈後 室ヲ女取ル 其子孫同所良久其後(俊)鎮守府将軍藤原之清衡ヨリ三代使エリ 葛西臺破守清重家臣ㇳナリ拾七代使エリ 葛西落城城 手類之舘住居不叶シ而 東磐井赤生津邑移ス 其治代安倍肥前ト云フ

安倍肥前

伊澤白鳥邑手類之舘住居不叶而 東山赤生津邑移 牢人ス 愛宕堂造立則比所住居也

安倍市良左衛門義里

同苗肥前嫡子也 同邑比畑屋敷移 牢人也

この系図は、赤生津安部4代将監三男の「下屋敷」が所有し、2代市良左衛門義里(御百姓書出の名は十良左衛門で推定1585-1655年)までの由緒書であり、原書の写し書きである。

概要は、先祖が安倍頼時の七男白鳥七郎則任であり、白鳥村「手類の舘」に居住し、藤原三代に仕え、葛西家臣となり17代仕える。葛西家没落により「手類の舘」に居住できず赤生津に移住した。初代安部肥前は浪人となる。愛宕堂を造立しそこに居住した。2代目は安倍市良左衛門義里は、赤生津村の畑屋敷に移住する。浪人である。

 

第7報研究では、葛西没落後に白鳥村のどの舘から赤生津のどこに移住したかを検証することから、白鳥七郎から藤原家臣、葛西家臣までの由緒の検証は今後の課題としたい。

まず、初代が住む愛宕堂という所は、生母青木地内にあり畑屋敷から東の束稲山に向かい600m地点の北上川と白鳥舘が見下ろせる高台にある。昭和年代まで畑屋敷本家や分家が代々参拝してきた。安部の神社、愛宕神社とも伝えられる。二代目安倍市良左衛門義里は、御百姓書出では「十良左衛門」という名で、現在の畑屋敷に移り住んだ。問題は、白鳥村のどの舘から移住してきたかである。

その前に、この由緒書が本家畑屋敷や他の分家になぜ存在しない理由を述べなければならない。正確に言えば、これまで親戚の間には、口碑伝承や憶測の入った由緒、赤生津安部初代が抜けている系図、各分家の系図のみしか存在しなかった。

 

イ 赤生津安部出自の滅失に関する検証

火災による系図の滅失も考えられるが、赤生津安部家では、親族間で系図を書写して保存してきたと考えられている。令和3年5月の調査では、山ノ神屋敷と下屋敷が所有していた系図は、本家の畑屋敷、分家の長根屋敷、下屋敷、曽利屋敷、山ノ神屋敷などがありいずれも10代以上の系統である。赤生津安部2代が書き写した「安倍家系図」を所有していたのは、下屋敷の分家であり、昭和年代で途絶え下屋敷に引き継がれた。

著者の考察であるが、正確な由緒が引きつがれない理由を、奥州仕置きの時代の豊臣秀吉による刀狩や兵農分離、切支丹弾圧などの影響ではないかと考えている。

 

安部肥前の名で、葛西家臣として天正18年(1590)8月の秀吉の奥州仕置軍を迎え撃った、あるいは逃亡した史料はないが、肥前が小次郎であるならば、赤生津東舘の白鳥治部少輔とともに、参陣した可能性もあるのではないか。当時は、秀吉の命令に逆らい小田原に参陣しない葛西家臣の居城は倒壊、追放され領地没収となっていた。記録は悉く散逸し、詳細の事績を知ることはできないという(柏山氏の没落から)。

 

前沢町史の「赤生津村のキリシタン」では、赤生津荒屋敷鈴木文一氏宅に「赤生津村高人別改帳」が保存されており、そのうち貞享5年(1688)分に、赤生津村人口494人、うち類族14人男8人女6人と書かれている。類族とは切支丹の子孫で、この改帳によると赤生津にもとキリシタン家族があったことがわかる(特に屋敷名を秘す)とある。

プライバシーの関係から人別帳からの確認は困難であるため、墓に記された墓字からキリシタンを特定する畠山喜一氏の近年の研究を参考に調査した。

切支丹墓字とは、類族が死後塩漬の上検視されるのを嫌い江戸奉行所に嘆願し、切支丹墓字を刻むことで検視を逃れるものときく(岩手県一関市東山町のキリシタン 真楽寺實水の建白書)。その墓字には「一 心 C(釣針状) 卍」などがある。

赤生津安部の畑屋敷・山ノ神屋敷・前畑屋敷の旧墓地には「釣針状のC」の墓字がある墓が2基発見された。そのうち一人は、享保10年(1725)の没年である。

 

(2)赤生津安部の居住していた白鳥村舘の住人に関する調査

新たに発見された安倍家系図の初代安倍肥前は、白鳥村のどの舘から移住してきたかを調査するものである。

 

① 白鳥村にある「照井館」「新城館」「白鳥舘」の住人

岩手県史第4巻「仙台藩管内・城館・城館主名及び在家表」の白鳥村の城館には、「白鳥城址(鵜ノ木)白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで、のち天正中佐藤豊後岩淵伊賀、天文三田主計白鳥八郎、小野寺入道某(柏山伊勢守良従)照井館(太郎高晴 新城館 熊谷直胤一万一1千刈加賜)」とある。

このうち「新城館」は「照井館」の西にあり前沢町史では、白鳥村風土記に「右城主並年代不明、今は林となっている」とあり、歴史的事実を知る由もないとしている。「熊谷家系譜」によると永享十一(1439)年六月、大崎氏との佐沼での合戦に出陣した熊谷直胤は、軍功によって葛西持信より「白鳥郷の蒼田一万二千苅」を拝領したとある。しかし、史料には居住した事実はない。よって、赤生津安部が居住した白鳥村の舘は、照井舘か白鳥舘である。

 

② 系図の「手類(てるい)の舘」は「照井舘」であるか

赤生津安部の祖が居住していた白鳥村「手類の舘」であるが、親類が書き写した系図には、「午類」や「牛類」の表記が見られており、「牛類」であれば水制の意味に変わる。奥州市歴史遺産課では手類之舘、牛類之舘とも未見とした。石巻市教育委員会では「史料には明らかに「手類之舘」とある。すなわち、白鳥村の中世城館・照井館を指すものと捉えるべき」との所見である。ただし、奥州市によると照井舘は未発掘であるといい、仙台領内古城・館第1巻には、照井館址説明略図に大手門や供養碑などあるが詳細は不明である。

 

③ 照井舘の照井太郎とは

前沢町史によると「照井館」は、「風土記」に「藤原秀衡の家臣、照井太郎陣場の由、伝えられている。」とあることから、秀衡の功照井太郎高春の居館跡である。照井太郎は、岩手県姓氏歴史人物大辞典では、「一関の磐井川流域を潤している照井堰の掘削を計画した人物。照井高直、または高春といい、藤原秀衡の臣であったという。照井氏はのちに葛西家に仕え、明応2年、磐井川から分水して南・北照井堰を完成した。」

「水土里ネットてるい(照井土地改良区)」では、「照井太郎高春の住まいは照井館(現在の奥州市前沢白鳥)と言われている。しかし他にも住んでいたと伝えられる場所が多くある。丸山舘(岩出山町下野目)、二桜舘(花泉町清水)、佐沼城(宮城県登米郡佐沼)。墓は、一関市中里字照井地内「照井神社」の五輪塔である。

胆沢平野土地改良区「水陸万頃」によると、一説には藤原秀衡の家臣、照井三郎により開削された「穴山用水堰」があり、胆沢川の断崖に取水口を設け、前沢の白鳥に導く堰であるという(13)。照井土地改良区「幾星霜」(473頁)の照井堰年表には、胆沢川から白鳥の開鑿の経過がある(14)。

1221年 照井三郎照井堰試堀のため胆沢穴山用水堰開鑿

1225年~藤原家臣照井氏穴山用水堰開鑿

1492年 照井太郎胆沢穴山用水堰小松入り口開鑿

1493年 照井太郎、照井堰開削と前後して、胆沢馬留穴堰掘鑿

 

④ 白鳥舘の白鳥治部とは

伊達藩の「奥羽観蹟聞老誌」に「白鳥古館 白鳥村に在り、安倍頼時の八子、白鳥八郎行任の舘である。天正年中岩渕伊賀守の居るところ」とある。前沢町史では、この城は中世になって白鳥氏の所有となった。白鳥氏は源義経の臣、山名駿河守義信の裔である。山名義信の系譜に藤原泰衡に仕え、白鳥鵜の木にある衣ヶ関守護職になったとあるから、おそらくこの白鳥舘に居住したのであろう。この山名義信が建久二年津軽行岡で討死後、その嫡子義忠が姓を白鳥と改め、その子孫が白鳥城に居住したという記録によっても明らかである。また山名義信は知行2700貫を赤生津に持ち、その三代の孫が赤生津城に住むという記録から見て、白鳥館と、赤生津城(東舘)は本城、枝城の関係にあったらしい、その証拠に、天正末年の両城の城主は共に白鳥治部となっている。

 

(3)第6報の初代の年代を特定する計算方法の修正

第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」という結論(15)を、再検証から「同じ時代に存在する人物」と修正するものである。

第6報研究では、赤荻阿部家と赤生津安部家の先祖の生没年や世代間年数が不明な中での初代が生存した年代の特定であり、小次郎や赤生津初代の生きていた年代の算定に誤差が生じていた。

第7報研究では、赤荻阿部下袋屋敷の協力により先祖没年と小次郎の兄大学の没年の把握ができた。初代からの戒名碑の没年や旧墓地にある初代安倍外記之介、2代上野、3代大学(小次郎の兄)の墓石の没年も確認することができた。

一方、赤生津安部家では、墓石からの没年が読み取れず、初代から12代までの没年が不明であることから、13代の戸籍の生没年と、岩手県史にある「組頭年齢」をもとに、年代の照合を行った。赤生津安部4代将監の生年が岩手県史4巻「赤生津村五人組及び組頭名簿(799頁)」に掲載されている。これをもとに、1世代の年数を、4代将監から戸籍で生没のわかる13代の間の平均とし、「1世代間20年」とするものである。第6報で用いた1世代年数は「最小22年、最大26年」で、岩手県史にある江戸初期当時の平均であった。

4代将監の生まれ年から1代20年で遡ると、赤生津初代の生没年は推定1565年-1635年となり、安部小次郎の兄、大学の没年1635年と一致することになる。安部小次郎は、赤生津初代の安部肥前とほぼ同じ生存した年代にあたる。これにより、第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」という結論を、「同じ年代に生存した人物とみなす」ことへ修正するものである。

 

「赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法」の修正

項目

第6報による赤生津安部初代当主が居住した年の推測

第7報による赤生津安部初代の生没年の推測

逆算する年代

5代兵部(三四良)が御引竿を受けた1642年(生没年ではない)

4代将監(惣右衛門)が組頭名簿(岩手県史4巻)により1625年生まれ

1世代遡上年数

最小22年、最大26年

1世代20年

遡上年数根拠

岩手県史「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」

・赤生津畑屋敷の世代間年数の平均

4代将監から戸籍で生没のわかる13代の間の平均「1世代間20年」

・赤荻下袋屋敷初代から6代の平均

「1世代間21年」

結論

1538年から1554年の間(小次郎が居住し奥州仕置きで去る1590年よりほど遠い)

初代肥前は、およそ1565年生、1635年没。小次郎の兄大学の没年1635年と一致。平均年齢は13代から19代の戸籍から平均70歳とする。

赤荻阿部家と赤生津安部家の先祖没年

赤荻系図は代数有之御百姓名簿書出(一関市史70頁)と一致し、赤生津初代肥前(白鳥から移住)は系図のみにあり、2代目以降から御百姓書出と一致している。

赤荻下袋屋敷 安部家

赤生津畑屋敷 安部家

没年(戒名)

没年(推定)

初代

外記之助

1590年

 

 

 

2代

上野

1612年

 

 

 

3代

大学(小次郎兄)

1635年

初代

小次郎重綱 肥前

1635年

4代

豊前

1650年

2代

十郎左衛門

1655年

5代

太郎兵衛

1675年

3代

兵庫

1675年

6代

對馬

1668年

4代

将監(県史・組頭年齢から1625生)

1695年

7代

惣左エ門

1719年

5代

兵部

1715年

 

4 考察

地方史における赤生津安部氏祖「安部小次郎」は、葛西家に仕え、天正(1573~1592)中に赤生津に住み、葛西没落後の浪人となる。小次郎の兄「大学」が赤荻下袋に居住したことは明らかであるが、弟「小次郎」の子孫の行方は定かでない。

伊達世臣民家譜では、「大学流落」とあり、葛西氏家臣団辞典では、「没落して浪士となり嫡子大学の代に故地赤荻に帰農した」。阿部家由緒では、葛西没落後は、「上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃れた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した」とある。

これらの史料をもとに、岩手県史では、「安部大学に至って、旧領地の赤荻に居住したものであろう」とし、前沢町史は、安倍小次郎重綱は、「赤生津を去り、先祖伝来の地赤荻(現一関市)に帰農している」としたものと考えられる。

前沢町史(昭和51年発行)では、由来にある「大学の代に赤荻に帰農」を、弟の小次郎とともに赤荻に帰農したと解釈しているが、これは、昭和年代の調査時に、赤生津安部家の由緒書と初代を明記した系図を滅失していたことが原因で、小次郎と思われる人物が特定できなかったと考えられる。

平成23年岩手県南史談会研究紀要「安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~」で、一関市文化財調査委員小野寺啓氏は、「小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか」という見解である。当研究の第5報でも、代数有之御百姓書出(一関市史第7巻資料編(Ⅱ))」の記録から、「小次郎」が葛西氏没落後、赤荻に戻ったことの根拠となり得る記述がないことを明らかにした。さらには、当調査により赤荻下袋屋敷の阿部家系図には、安倍左近小次郎重綱は、「赤生津安倍」とあるが子孫の記載はない。小次郎と肥前の生存した年代測定によっても、同じ時代にいることが再検証により実証された。

 これにより、安部小次郎は、赤生津に帰農したと結論付けることができる。

しかしながら、新たな赤生津安部系図には、白鳥村からの移住とあり、安部外記之介から安部小次郎まで、白鳥村舘に居住していた史料は今のところない。外記之介の領地は、赤荻ともいわれるが、実際は不明である。外記之介の出自は不明であるが、先祖は、赤生津安部肥前と同じく安倍頼時と伝えている。

 

5 まとめ

前沢町史では小次郎は赤生津から赤荻に帰農し、一関側では赤荻に帰農の史料は未見という地方史の相違についての結論は、新たな史料を踏まえ、「小次郎は赤生津に帰農した可能性が高い」といえる。しかしながら、同時に安部外記之介も白鳥村舘の住人であることが立証されなければならない。

 今後の研究課題は、白鳥村舘の住人である白鳥治部または民部少輔、照井太郎など葛西没落後に足取りが途絶えた家臣や、藤原時代に平泉の北方を守る武将の中から関係を見出す検証が必要である。

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねての研究は、まだ途中の段階ではあるが、秀吉の奥州仕置き以前の安部の系統を遡ることは困難が予想される。例えば、外記之介系統の血縁関係にある赤荻荘家は、藤原泰衡の子孫であるが、今日まで4回の改姓をしてきたという。場合によっては、安部以外の姓を調査することになるかもしれない。

 

6 謝辞

研究論文第1報から第6報の著者と関係者の安部紀子氏、安部公良氏、森静子氏、安部完良氏はじめ、史料提供やご助言いただいた赤生津の安部万王氏、安部勝氏、及川照男氏、大石喜清氏、赤荻下袋屋敷阿部郁夫氏、奥州市教育委員会高橋和孝氏、石巻市教育委員会泉田邦彦氏に厚く御礼申し上げます。

7 参考文献

(1)「角川日本姓氏歴史人物大辞典3 岩手県姓氏歴史人物大辞典」(1998年5月 角川書店) 第2部姓氏編 安倍・安部390頁

(2)「伊達世臣家譜巻之十二(平士之部)」(1975年9月 仙台叢書)百三十六阿倍116頁

(3)紫桃正隆「戦国大名葛西氏家臣団辞典」(宝文堂1990年12月)

(4)赤荻阿部家系図及阿部家由緒略記参照(安部隋波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌 昭和33年1月8日)

(5)「岩手県史第3巻中世編下」(1972年12月 岩手県)108頁

(6)前沢町史中巻(184)

(7)「岩手県南史談会研究紀要第40集」(2011年7月 岩手県南史談会)安部外記之介論考23頁

(8)「岩手県南史談会研究紀要第42集」

(9)「岩手県南史談会研究紀要第30・35集」

(10)「東磐史学第27号」(2002年8月 東磐史学会 岩手県史学会東磐支部東磐井郡キリシタン遺跡 畠山喜一 25頁・35頁

(11)「仙台領切支丹史1仙台領切支丹文書集成」(1994年8月 仙台領切支丹研究会)キリシタン禁制9頁・10頁

(12)重松一義「東北隠れ切支丹弾圧の研究」(1996年 藤沢町文化振興協会)隠れ切支丹関係年表143頁

(13)胆沢平野土地改良区「水陸万頃」

(14)照井土地改良区「幾星霜」(473頁)

(15)「岩手県南史談会研究紀要第44集」(2015年6月 岩手県南史談会)「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて(第6報)80頁