赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

陸奥話記1062年8月17日。磐井郡「小松の柵」安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の柵を源頼義軍が攻める


衣川の安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の舘。小松の柵は磐井にある

 

陸奥話記13 清原氏の援軍を得て官軍反撃す

頼義軍は、松山道を進軍して、南磐井郡の中山の大風澤に赴いた。翌日(17日)、同郡の萩野馬場に達した。この場所は、小松の柵を離れること、五町(約550m)余りの地点である。小松の柵は、安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の柵であった。日柄が良くないということと、夕方が近づいていたため、この柵をむやみに攻撃するつもりはなかった。ところが武貞、頼貞らが、まず周辺の地勢を見ようと思って柵に接近した時、歩兵が、柵の外にある小屋を焼いてしまったため、これに反応するように小松の柵内から敵軍の声が上がり、矢や石(つぶて)がいっせいに放たれ、戦闘が始まったのであった。


官軍は応戦して、誰もが争って先陣をと志願した。この時、将軍は武則に命じて言った。「攻撃は明日と思っていたが、状勢はこれと違って、当の戦はすでに始まってしまった。戦というものは、チャンスが来たら始めるもの。ただただ吉凶を占い日時を選んで行うようなものではない。それ故に宋の武帝は、凶の日と言われる往亡の日を避けずに戦を始めたために功をなした。だから我らも開戦の機会をうかがい、これにただ従うのみだ」
武則はこれに応えて言った。「官軍の勢いは、まるで侵略する水か火のようです。敵兵の鋒(ほこさき)もけっして当たることはないでしょう。まさにこれ以上の開戦の好機はないでしょう」

そして騎兵を用いて要害を全体を囲み、歩兵には城柵を攻撃させた。

この小松の柵であるが、その東南は、激流が滔々と流れ、青々とした深い淵となっている。また西北には、切り立った壁のような崖が聳え立っている。その為、この柵を攻めようとすれば、歩兵も騎馬も共に泥だらけになる。ところが、兵のうち深江是則や大伴員季らは決死の武者20人ばかりを率いて、剣先で崖の岩に足場を築きながら、鋒を突いて岩を登っていった。やがて柵の下に到達し柵を斬り倒し、城内に乱入して、敵軍と刀(やいば)を合わせて交戦となった。これによって城中は混乱し、賊軍は壊滅して敗れた。賊軍の将安倍宗任は、800騎ばかりを率いて、城外で攻戦した。官軍の先陣は、大変に疲労困憊し、宗任軍を敗ることはできなかった。

ここで、五陣の将たちが招集された。彼らは平真平、菅原行基、源真清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、橘孝忠、源親季、藤原朝臣時経、丸子宿禰弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方らである。彼らを先陣に加えて、宗任軍を攻めさせた。彼らはみな将軍頼義直属の坂東の精兵たちである。死がそこにある壮絶な決戦の場において、彼らは我を忘れて闘い、ついにに宗任軍を敗ることに成功した。

また七陣の陣頭である清原武道が、要害の地に陣を敷いていると、突然宗任軍の精兵30騎ばかりが、遊撃兵として襲ってきた。武道は、これを迎え撃ち、そのほとんどを殺害し尽くしてしまった。安倍宗任率いる賊軍は、城を捨て、逃走するに及んだ。官軍は、直ちに火を放ち、その柵を焼き払ってしまった。戦闘において、射殺した敵兵は60人余り。負傷して逃亡した敵兵の数多数。一方官軍の死者は13人。負傷兵は150人であった。兵士たちを休め、武器を整えるために、あえて逃亡した宗任軍を追跡して攻撃することはしなかった。またこの時、長雨に遭遇して、いたずらに数日を過ごすことになった。そのため、食糧が尽きてしまい、官軍はたちまち飢えに苦しむことになった。