赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

陸奥話記1062年9月6日。源軍が貞任軍の衣河の関を攻撃

 

衣川の衣川関跡。高速道路付近

 

15 衣河関での攻防戦

9月6日正午の時、将軍は安倍軍の高梨の宿に入り、即日、衣河の関を攻撃しようと思った。衣河の関は、元来路は狭く、その上足場が悪く険しいことで、この関を攻め落とすのはあの函谷関(中国河南省にある関)よりも難しいといわれる。

何しろたった一人が険阻な道に立ち往生すれば、たとえ後ろに1万を越える兵が控えていたとしても、一歩も前進することはできない。貞任軍は、官軍の攻撃に備え、いよいよ関に続く道端の木を斬り、谷を塞ぎ、岸を崩して、路を断ってしまった。さらに長雨は、いっこうに止むことなく、衣川の流れは溢れかえっていた。それでも出羽から来た三人の武者(押領使)は三方から攻め込んでいった。武貞は本道である関道を攻め込み、頼貞は衣川の西から上流に回って船着き場(上津衣川道)から、武則は東にから関の下道から攻む込んでいった。

戦闘は午後2時頃から午後8時まで続いた。官軍の死者は9人。負傷者は80人ほど。武則は、馬から降り、関の岸辺を観察し、久清という武者を呼んで次のように命じた。
「両岸に川面に向かって曲った木があるのが見えるだろう。その枝葉は川面に垂れている。お前は身軽で敏捷、飛んだり跳ねたりするのが得意だったな。そこでお前に命じるのだが、お前はこの彼岸にある木を伝って、密かに賊軍の陣にもぐり込み、砦にに火を掛けろ。貞任軍らは、おそらく営舎の火事に驚いて混乱して走り回るだろう。これに乗じてわが軍は、必ずこの関を破ってみせよう」と。

久清はうなずいて、「たとえ死んでも生きてもご命令に随いましょう」と。すると、久清は、猿が飛び跳ねるようにして、たちまち向こう岸の曲った木にたどり着くと、縄を伸ばして、葛の木に巻き付け、味方の武者30人ばかりを同じように川を渡らせることに成功した。久清は、貞任の腹心である藤原業親(ふじわらなりちか:字は大藤内)の柵に達して、不意に火を放って焼いた。貞任らは。業親の柵の焼亡を見て、大いに驚き、衣河の関を放棄して、鳥海の柵を守ろうと遁走したのである。かくしてこの戦闘で久清らのために殺された貞任軍の兵士は70人ばかりに上った。