赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

陸奥話記1062年9月17日。頼義は、厨川柵(盛岡市)を焼き、経清の首級を斬る

18 頼義、経清の首級を斬る

17日、午後二時(未)頃、将軍は将兵に次のように命じた。
「各自、近くの村落に行って、家屋を壊して、ここに運び込め。そしてこの城の溝を埋めるのだ。また別の者は、それぞれ萱(かや)を苅ってきて、これを河岸に敷き詰めるのだ。」。

この命令により、短い間に壊した家屋の木材や刈り取った萱が山のように積まれた。将軍は馬を下りて、京の都を遙拝して誓いの言葉を述べた。
「昔、漢王の徳が衰えない頃、校尉将軍の忠節に感応し枯れていた泉が、たちまち溢れて窮状を助けたと申します。今、わが朝において天皇の威厳は新たかです。この威光により大風が起こり、私の忠節をお助けください。伏してお願い申し上げます。八幡宮の三神よ、どうか風を吹かせ、火を起こして、あの厨川の柵を焼いてください」と。

すると将軍は、自ら火を取り、「これは神火である」と言ってこれを柵の中に投じた。この瞬間、鳩が飛んで来て、官軍の陣の上空を翔け廻った。将軍はこれを奇瑞と感じて手を合わせ二度拝んだ。

すると、暴風がたちまち起きて、炎と煙が風に煽られて柵の中に飛ぶように流れ込んでいった。これより先には、官軍が射る矢のほとんどは柵の板や櫓に刺さって、まるで蓑毛(みののけ=みので編んだ雨具)ような有様で効果がなかったのだが・・・。今は、炎が飛炎となって風になびき蓑毛のようになっていた矢羽に火を付け、柵板や櫓や屋舎にまで火が移ってしまった。城中から男女数千人の悲鳴が聞こえた。貞任軍は、混乱して、ある者は、緑の川面に身を投げ、ある者は刀で首を刎ねて倒れた。これを見た官軍は、川面を渡って攻撃した。この時、貞任軍の決死隊数百人が、甲冑に刀を激しく振るって、官軍の囲みを突き破って現れた。元々死ぬ覚悟の者ども、これによって官軍に多くの死者がでた。武則は、将兵に命令した。
「わが方の囲みを開いて貞任軍を外に出せ」官軍の兵たちが、囲みを解き放つと、敵兵たちは、みな外に気を取られて、戦ずに逃走する状況となった。これによって官軍は、貞任軍を好きなように打ち倒して殺害した。

これによって、ついに藤原経清が、生虜(いけどり)にされた。将軍は目の前に引き出して言った。「お前は、わが源氏の先祖伝来の家来の分際でありながら、このところ、朝廷の威光を蔑(ないがし)ろにして、私という主君まで侮蔑してきた。これは親を殺すに等しい大罪であり、人の道を外した行為だ。どうだ。お前は、捕まった今でも、白符を発行して不正行為をできるのか。答えてみよ」と。

経清は首を伏したまま、これに応えずにいた。将軍はこれを深く恨み、刃のこぼれた鈍刀を持ってこさせて、経清の首をゆっくりゆっくり斬らせたのであった。これはすべて頼義が経清の痛苦をできるだけ延ばしたいと思い、そのようにさせたのである。