奥州藤原氏、葛西氏 |
比与鳥七郎則任 |
照井太郎 |
1062年 前九年の役終わる
1083年 清原家衡が、
------------------------ 1089 後三年の役終わり清衡、陸奥押領使となり陸奥六郡を領し、豊田館に住す。 1095 清衡、豊田館から平泉に居館を移す。 ------------------------ 1189年 葛西清重、奥州総奉行に任じられ陸奥国の御家人統率を任される。 1590年 葛西氏17代当主晴信、豊臣秀吉の小田原に参陣できず奥州仕置により改易。 |
1062年 安倍頼時の七男「比与鳥七郎則任」は、衣川(衣川関)と厨川(厨川柵)の両城の落城により、その後降人(降参した人)となる。 胆沢白鳥村手類之舘(照井舘)に居住。先室は厨川の堀に沈み、後室をめとった。 その子孫は同所(照井舘)に、良久しく(少し長い間)いた。
-------------------------- その後、鎮守府将軍藤原之清衡より三代仕えた。
(奥州合戦により)高舘落城する。 -------------------------- その後は、葛西臺破守清重の家臣となり十七代仕える。 (秀吉の奥州仕置により)葛西落城となり、城手類(照井)之舘に居住が叶わず、そして、東磐井郡赤生津村に移った。その治代(先代)は安倍肥前と云う。 |
-------------------------- 1158年 照井太郎高春水路開削を企画 1174年 秀衡公家臣・照井太郎高春照井堰水路開削計画 1185年 照井太郎高直 佐沼城築城、照井太郎高春用水路開削 1187年 照井堰の基礎が出来る 1189年 泰衡義経を襲う、照井太郎参戦 -------------------------- 1189年 泰衡の将照井太郎高直、阿津樫山の戦いに参戦、柴田郡韮神山にて討死。高春・高泰両名文治の役の難を避け五串村骨寺に居住、後葛西氏に仕え田野開拓に励み豪族となる 1189年 照井太郎忠基 泰衡に従い二井柵に逃れ、泰衡落命後秋田県北に住む(後裔が高春と) 1195年 照井太郎高春照井堰大江堰開削 1208年 高泰・荻荘荘司と共に磐井川両岸に穴堰開削し、山目境まで掘削 1221年 照井三郎照井堰試堀のため伊澤穴山用水堰開削 1225年~ 藤原家臣照井氏穴山用水堰開削 【不明】 1308年 照井太郎供養碑(宮城県桃生郡赤生村)徳治3年の刻字 【不明】 1481年 照井忠基後裔、照井太郎隆春 隆定 親子祖先旧領(白鳥照井館)訪ね中里前堀にて前堀にて行き倒れ、隆定平泉千手院へ引き取られる、後、父の墓碑建立 1492年 照井太郎胆沢穴山用水堰小松入り口開削 1493年 照井太郎、照井堰開削と前後して、胆沢馬留穴堰掘削 1493年 高安、荻荘荘司と相諮り私費にて磐井川両岸に穴堰を通し、山目、一関方面へ導水、右岸を南照井、左岸を北照井堰、後右岸は大江堀、左岸南照井堰 |