胆沢町史Ⅵ189頁 第5節穴山堰
安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住んでいたことを伝え、現在も前沢町字照井館の南陣場に照井太郎高春の館跡伝える所がある。(藤原秀衡家臣照井太郎忠基は現衣川村瀬原の照井館城主で、その数代後裔の照井太郎隆春があり、隆春の一子隆定は平泉毛越寺千手院で育つ。)
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「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」
【著者訳】
照井館は、南北に60間(108m)、東西に61mあり、照井陣場(陣取っている場所)とも伝えられている。藤原秀衡の家臣、照井太郎の陣場と伝えられている。ただし、右館(照井館)は、当時、馬などに草を食わせて飼育する山であり、同居人がいたということである。
(著者)照井館は高台にあり牧場に適した地域である。「居候」とあるが、「照井一族家臣(藤原家臣)が住んでいたと」白鳥村風土記で伝えている。
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「草飼山ニ罷成居候事」
ただし、照井館の当時は、 馬などに草を食わせて飼育する山の状態になっている。
いわて歴史探訪 12頁
「白鳥村風土記」によれば、藤原泰衡没落後、照井氏は五串村骨寺に移り、のち葛西氏に仕え、胆沢郡白鳥村の照井館に居住し、田野開拓の事業を任ぜられ、豪族となり、明応二年(1493)には、五串村と猪岡村の両崖に穴堰を開いたという。
照井堰とそれを完成させた照井太郎高春のお話 4頁
(水土里ネットてるい)
・照井太郎高春の住まいは照井館(現在の前沢町白鳥)と言われている。
・しかし他にも住んでいたと伝えられている場所がある。
→丸山舘(岩出山町下野目)
→二桜舘(花泉町清水)
【調査】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①→丸山舘(岩出山町下野目)
岩出山町史上巻76頁
(イ)照井城
一名丸山舘ともいわれ、……。この照井城は藤原秀衡の家臣、照井太郎高直の居城であった。源頼朝は泰衡を討つにあたって、まず仁田四郎忠常を先発させて、泰衡の臣照井太郎高直を攻撃させて。高直の軍は敗北し照井城は忠常の手中に落ちたのである、高直は捉えられて首をはねられ、妻子一族は城と共に焼死したと伝えられている。
【著者】
1156年 岩出山町西大崎に照井太郎が「照井城」を築城している。
1189年の奥州合戦により奥州藤原氏が滅亡した時代。照井太郎は参戦している。
※照井太郎と妻子は戦死したとあるが・・・。
②→二桜舘(花泉町清水)
清水公園保存会 - いちのせき市民活動センター (center-i.org)
花泉に二桜城あり
JR東北本線清水原駅から花泉小学校方面に向かう市道の傍らに6体の笠地蔵が佇む清水集落。その奥に広がる小高い山に、かつて二桜城(におうじょう)と呼ばれるお城がありました。「築城年代は定かではありません。文献によれば、延暦年間(782年~806年)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおりの陣所としたと伝えられています」と小金森さんは語ります。
小金森さんからいただいた資料によると、平安時代には藤原秀衡公の家臣照井太郎高春が居住。
延慶2年(1309年)から約300年間は清水清秀一族が、文禄2年(1593年)から伊達一族の留守政景が居城したと記録されています。清水集落は、城があった頃の地域の中心地で、当時は城山の下に街が形成されており、当時の家臣達の屋敷があった雰囲気が今も残っています。
「城山には花立泉(かりゅうせん)と呼ばれる井戸があります。花泉の町名の由来はここから来ています」と小金森さんに教えていただきました。
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二桜館
「風土記書出」には、……照井太郎高春等に続き、葛西清秀(延慶2)、……その後留守政景も文禄から元和まで居住したと記されている。
岩手県史4巻268
北照井堰は藤原秀衡の臣照井太郎高直(春)が、登米郡佐沼城から五串村骨寺に難を避けて居住し、後葛西氏に仕え、田野開拓の事を担任せしめられ、豪族となり(胆沢郡にも照井太郎の伝説があり、玉作にもある)、明応二年当時の照井太郎が計画し、五串村・猪岡村の西岸に磐井川より穴堰を開き、南猪岡村水源から三黒沢……
【著者】