赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

【初稿】第八報 奥州仕置の時代に白鳥村舘から赤生津村に移住した安部氏の「束稲山麓と洪水常襲地域での養蚕業、信仰、郷土芸能の振興」に関する検証

 

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて

―第八報 奥州仕置の時代に白鳥村舘から赤生津村に移住した安部氏の「束稲山麓と洪水常襲地域での養蚕業、信仰、郷土芸能の振興」に関する検証―

                              

 

一 概要

 

豊臣秀吉の天下統一時代に、奥州仕置軍は、白鳥村の白鳥舘や照井舘をも制圧し、領主の役職を取り上げ、領土を没収した。「磐井東山赤生津邑畑屋敷安部家之系図(1)によると、「十七代仕えた葛西氏は没落。白鳥村の手(牛)類ノ舘も落城となり、居住がかなわず、東磐井赤生津村に移住する。初代安倍肥前は浪人(仕官しない武士)となる」とある。

この白鳥村舘は、子孫の解釈では「白鳥舘」であるが、石巻市教育委員会では、この「手類之舘」を「照井舘」の当て字と解釈しており(1)、その場合、安部氏は照井舘の住人となる。

白鳥村には、白鳥八郎後裔と伝わる白鳥民部少輔の「白鳥舘」と、胆沢の穴堰を開削(2)した照井太郎の「照井舘」があるが、これら舘の住人との関係は今後の課題である。

この研究の最終目的は、①奥州市の中で際立って高い密度で存在す生津地区の安部性の特異性を明らかにすることと、②衣川安部氏とのつながりを探索することである。

安倍家系図(1)に、「安倍頼時之七男比與鳥七郎則任」を祖とし、奥州藤原氏、葛西氏に仕えたとあるが、現時点では具体的な物証などが少なく、伝説の域を出ていない。「白鳥民部少輔」や「照井太郎」のさらなる解明が解決の糸口になると考えられる。

第八報では、この系図上のルートを遡る前に、赤生津安部氏の足跡を検証し、その功績を振り返ることで、郷土史研究の発展に寄与することを目的とする。

 

二 研究目的

 

 第八報では、「赤生津地区の安部性の特異性を明らかにすること」を目的とし、新たに発掘した史料から、天正一八年(一五九〇)に、束稲山麓に落ち延びた「安倍肥前」が、北上川水害圏に養蚕業や信仰、郷土芸能の先導的役割を果たしたことを検証するものである。

 

三 研究方法

 

 山ノ神屋敷安部家から三二一点の古文書と系図、旧平屋敷安部家から下屋敷が引き継いだ古文書と系図、青木地内の旧墓地から発掘した古碑などのうち、解読ができたものから研究対象とする。

(一)史料一「赤生津長根屋敷安部家の「北上川沖積地の開田と赤生津橋架設の頌徳碑」」から近年の安部家の地域貢献を明らかにする。

(二)史料二「下屋敷・山ノ神屋敷が所蔵する安部家一一軒の系図」から赤生津安部家全体の系統を把握する。

(三)史料三「赤生津山ノ神屋敷安部家の「赤生津神楽目録」」から赤生津神楽との接点を調査する。

(四)史料四「赤生津平屋敷安部家の行山鹿踊「行参躍許之巻物」」から途絶えた「赤生津鹿踊」との接点を調査する。

(五)史料五「赤生津前畑屋敷・曽利畑屋(御産堂)安部家の「法華経供養塔」」から安部家の信仰との関係性を調査する。

(六)史料六「赤生津平屋敷安部家が所蔵する「かくし念仏 本家弘所御服薬」」から安部家との接点を調査する。

(七)史料七「赤生津村北上川沖積地の養蚕業の先導的役割を果たした赤生津安部家」から安部家の功績を検証する。

 

四 結果および考察

 

(一)発掘された資料や郷土史からの考察

 

  • 史料一

赤生津長根屋敷安部家の「北上川沖積地の開田と赤生津橋架設の頌徳碑」

 

赤生津の長根屋敷安部家は、北上川沖積地の開田と赤生津橋架設に貢献した。昭和三五年に岩手県知事から贈られた「阿部精蔵翁頌徳碑」には、「北上河畔二十余町歩の開田と赤生津橋の架設は誠に翁が不抜の精神と堅忍の努力に依るものである嘗て(かつて)老朽の桑園と荒地は今や年毎に稔る穰々の美田と化した……不滅の功を後世に貽さんとする」(3)とある。安部精蔵は、「東磐井郡生母村(奥州市前沢)赤生津生まれ。生母村書記・収入役・助役を経て大正一二年より三期生母村長を務め、村会議員を含め前後三八年間村政に尽くした。また、村の農業会長、耕地整理組合長も務めたほか、北上河畔二〇余町歩の開田と赤生津橋架設を完成させた」と岩手県姓氏歴史人物大辞典(4)にある。また、昭和一九年北上川の氾濫で赤生津橋の西端が破壊流失した時には、仮橋を架設したが、その資材は、安部精蔵の自己所有林の杉の用材を提供したという(前沢町史)。

 

写真1 洪水で破壊の赤生津橋(昭和19年

出典 前沢町史下巻㈡412頁 

写真2 安部精蔵頌徳碑と長根屋敷

「安部精蔵頌徳碑」と長根屋敷安部家

昭和三四年、赤生津橋永久橋完工記念に「安部精蔵頌徳碑」前にて撮られた「長根屋敷安部家」の写真では、前列中央に安部精蔵後嗣の安部寿三良(前沢町長)、後列には、孫で本研究第一報から第七報までの著者が見える。後列、安部徹良(左から二番目)、安部公良(左から三番目)、安部皓三(左から五番目)、森靜子(左から七番目)。

 

  • 史料二

下屋敷・山ノ神屋敷が所蔵する安部家一一軒の系図

 

写真3 下屋敷安部家系図

赤生津安部家は、昭和年代に二三軒あり血族であると伝えるが、そのうち系図で把握しているのは一一軒である。北上川沖積地と東側の棚田周辺には、本家の畑屋敷とその分家の山ノ神屋敷、前畑屋敷、曽利屋敷(跡)があり、束稲山の登り口付近に、長根屋敷(本家四代分家)、下屋敷(本家四代分家)とその分家の平屋敷(跡)、日富屋敷(跡)がある。系図にはない分家もある。

 

  • 史料三

赤生津山ノ神屋敷安部家の「赤生津神楽目録」

 

図1 赤生津安部家系図

写真4 神楽目録

写真5 赤生津神楽鳥舞

山ノ神屋敷一〇代安部忠三郎書き写しの神楽「目録」、明治二七年書で一五三頁にわたる台本であるが、目録には免許皆伝の意味もある。昭和戦前に、山ノ神屋敷一一代安部貞美が、赤生津神楽で「八岐大蛇退治」なども演じた。大蛇の中は籾殻で、手足で操り、火を噴くときは籾殻をまき散らし観客を喜ばせたという。親子で神楽指導者であった。口伝によれば、赤生津神楽は、明治中期に胆沢の「狼ヶ志田神楽」を伝授し、台本等で伝承されてきた演目は四三。現在上演できるのは、御神楽(鳥舞)のみである。鳥舞は、日本神話によるもので、天照大神が岩戸を開き、大神が世に出たので、世の中が急に明るくなり鶏が乱舞するという神楽の初めの演目である。「胆沢町史Ⅹ-一一四頁」(5)によると伝播先の狼ヶ志田神楽は、「明治二五年、西磐井郡萩荘村達古袋阿部徳太郎より習得」とある。

 

  • 史料四

赤生津平屋敷安部家の行山鹿踊「行参躍許之巻物」

 

赤生津「行山鹿踊」は、戦後の食糧難の時期に途絶え、供養碑で伝えられるのみである。平屋敷安部家には、江戸時代末期の「行山鹿踊」の免許皆伝の書があった。西磐井郡平泉の弟子である下伊澤郡小山村の指導者からの免許皆伝と伝わる。「行山鹿踊」を許す巻物、九曜の紋の使用の許可などが書かれている。赤生津には行山供養碑があり昭和戦前まで月山神社祭典などで披露されていた。当時、平屋敷一〇代安部寿平と新地の鈴木家、斎田の初貝家とともに指導していた。鹿踊は、先祖供養と五穀成就を祈る民衆の踊りである。 

 

 

 

 

 

 

 

行参躍許之巻物

 

先生 

見戸扁 清六郎

登井浪 勘太郎

東由之郡

 ヲツコウ野 茂傳治

西磐井平泉  

鹿躍紋形許之事

日丸御免赤 供養御免

頭 壹

幕 右脇壹 

  左脇壹

莛 六

左巴 八 六

前ハシコ 龍尾梅竹

右之通相無御生許之叓

……

下伊澤小山村 六左衛門

……

  • 史料五

写真6 赤生津鹿踊供養碑

「行山 大正三年九月廿九日」

 

赤生津前畑屋敷・曽利畑屋(御産堂)安部家の「法華経供養塔」

 

写真7 行参躍許之巻物

 

令和三年一一月に「前畑屋敷・曽利屋敷旧墓地」から発掘された古碑。曽利屋敷(御産堂)安部家の墓地区画にある天明二年(一七八二)三左衛門願主による供養塔である。安部家系図によると「三左衛門」は、前畑屋敷三代(推定一七七五-一七九五)、畑屋敷七代(推定一七五五-一七七五)であるが、年代的に前畑屋敷三代安部三左衛門であると考えられる。

「大乗妙典日本回国」とあるが、「織田仏教大辞典」には、「法華の行者日本六十六箇所に各一部の妙典を霊場に納めん為に廻國することを六十六部廻國聖と言う」。「日本回國六十六部縁起-一五頁」(6)に「納経は経巻を寺社に奉納して来世の幸福、現世の安穏、死者の冥福を祈願したものである」。願主三左衛門が寺社に納経する廻国修行を行い、故故郷に帰った際に造立した供養碑ではないかと考えられる。

「天下和順」は「大無量寿経下巻」にある経文で、「仏の行かれる所は、世の中は平和に潤い、太陽も月も清らかに照り輝き、風は程よく爽やか、雨も頃合いを計ったかのように降り注ぐ」(訳:氷川町 光澤寺 源明龍)

写真8 法華経供養塔

 

梵字キリーク

天下和順 天明二壬寅歳

奉納大乗妙典日本回国供養

四月十五日 願主 三左衛門

山ノ神屋敷の史料から、近年まで「法華経信者」であることが確認されている。

 

  • 史料六

赤生津平屋敷安部家が所蔵する「かくし念仏 本家弘所御服薬」

 

かくし念仏は、乳幼児の死亡率が高かった時代に、「仏様拝み」として普及した民間信仰である。切支丹と同様に弾圧され、宝暦四年(一六五四)に布教した山崎杢左衛門が見せしめのため処刑されたにもかかわらず、地下組織として胆沢地方に広がった。赤生津村の信仰に関する郷土史はないが、山崎杢左衛門らが京都の鍵屋五兵衛から伝授した経緯に関する「本家弘所御服薬」の写しが、平屋敷安部家所蔵として令和三年に発掘された。

(一)かくし念仏とは

「金ヶ崎町史近・現代編-六五二頁」(7)で、かくし念仏は、「親鸞上人の開いた浄土真宗の教義に基づき、「免在家」「隠出家」の考えにより、修行もなく、普通の人間の身で浄土に付赴くことができる思想による」という。その儀式の多くは、子供たちが、ひたすら念仏または「助けたまえ」を繰り返すというものである。

隠し念仏回想録―一二頁」(8)に、「昔は幼児の死亡率が高かった……。愛しい我が子が幼いまま死んでいくのは、悲しい耐え難いことであり……。それだけに子どもを持つ親たちは、オトリアゲ(「仏様拝み」)を、早く済ませておきたかった」という。胆沢地方では、二百数十年にわたり深く浸透したが、平成一二年(二〇〇〇)頃を境に廃れたという。

 

(二)山崎杢左衛門らが伝授した記録「本家弘所御服薬」

写真9 本家服薬(本家弘所御服薬)

 「かくし念仏考第一―一七五頁」(9)によると、昭和一五年岩手県の届出書から生母村には「渋谷地流念仏講中」など二団体ある。胆沢地方への伝播と受容を記した書「本家服薬(本家弘所御服薬)」を所有していたことから、平屋敷安部家は、渋谷地流などの導師、脇役、世話役ではなかったかと考えられる。「本家弘所御服薬」は、「明治九年渋谷地派第七代及川彦太郎が、同派成立過程を歴史的に権威づけようと作製したもので、胆沢郡胆沢村南下幅谷地田及川一男家に所蔵せられている(かくし念仏考第一―九一頁)」。

この「本家弘所御服薬」には、宝暦三年(一七五三)に「山崎杢左衛門、勘兵衛、彦右衛門の兄の武七(後の渋谷地派の教詮坊)の四人が京都へ行き、鍵屋五兵衛(法名善休)より杢左衛門、勘兵衛、武七は付属を受け、御真影を授けられた(隠し念仏―六三頁10による訳の一部)」とある。

 この信仰が爆発的に広まるにつれて、浄土真宗からは妬まれ、厳罰が望まれ、仙台藩は、宝暦四年(一六五四)に山崎杢左衛門、長吉らを磔刑。胆沢地方に残った信者達は、深く近に潜り、表面上は姿を隠したという(隠し念仏―六六頁)。

 

  • 史料七

赤生津村北上川沖積地の養蚕業の先導的役割を果たした赤生津安部家

 

ア 多くの田畑を引き受け繁盛した寛永検地(一六四二)の時代

平屋敷所蔵「安部家之系図」に、田畑で繁盛した安部家が記されている。「畑屋敷四代安部将監(一六二五-不明)は、十郎左衛門の嫡子。比畑屋敷から同村(赤生津村)畑屋敷に移り百姓となる。多くの野や谷地(湿地)に田畑を集め繁昌した。人頭(世帯主)を嫡子の兵部に譲る。同村長根屋敷に二男、三男、夫婦ともども隠居する。畑屋敷五代安部兵部は、安部将監の嫡子。寛永十九年御竿(検地)のとき三四郎と改名する。多くの田畑を引き受け繁昌する。(著者訳)」

写真10 安部家之経図(平屋敷所蔵)

 

阿倍将監

同苗十郎左衛門嫡子也 同邑畑屋舗百姓成 多野谷地田畠集繁昌山神権現造立跡人頭嫡子兵部譲 同邑長根屋舗二男三男夫婦諸共隠居

畠屋舗兵部

安倍将監之嫡子也寛永十九年御竿改名三四郎成 多之田畠引請繁盛

畑屋敷五代安部兵部(三四郎)は、寛永一九年(一六四二)に、年貢の賦課対象となる検地を受けた際に、四町七反の田畑を所有していた(岩手県史四巻―七一頁)。

本家畑屋敷系図の五代兵部(推定一六四五~一七一五)には「田畑請繁昌也」とあるが、畑屋敷は北上川沖積地の洪水常襲地域付近と束稲山麓の棚田の境目にあり、毎年のように家屋の約一〇mまで増水が見られている。立地条件は悪いが、桑畑地内で蚕を飼育し、付近の北上川舟運の船着き場から仙台藩への生糸を運搬するには、好条件であったと考えられる。

 

イ 養蚕業の導入に貢献した安部家

前沢町史―一九二頁」「赤生津村の養蚕」11に、「生母字青木地内の安部万王家に次の貴重な文書がある。」というが、これは畑屋敷分家の山ノ神屋敷安部家が所有する古文書である。

 

 

写真12 北上川沖積地の水害圏

宝暦三年(一七五三)、仙台藩要路の役人あて蚕種商人松屋太兵衛が提出した領内蚕種販売の請願書に、「赤生津村には親類の四郎兵衛と申す御百姓が居るのでこれに売らせ、拙者及び手代六、七人で養蚕指導に駆け廻るので、ぜひ蚕種商を仰せ付けられたい」とある。解説で「御百姓四郎兵衛が、蚕種商人松屋太兵衛の手先となって、赤生津村一円を一手販売したのであろう……いまのところ赤生津地区以外に、これより古い蚕種関係文書が発見されていないことから、赤生津が前沢地方における蚕種移入の最初の地であったと思われる。」

写真11 元禄11年(1698)10月 生江昭内作「赤生図絵図」

生母吉田 及川照男氏所蔵

※沖積地に伸びる右から2番目の小河川下に「山神権現」と「畑屋敷」が見える。

前沢町史中巻-四六〇頁」12に「享保十年(一七二五)「赤生津村高人別帳」には、参考までに十二人を調べると( )内は屋敷名……組頭 四郎兵ェ(畑)……」とある。したがって、右の請願書は、山ノ神屋敷安部家の所蔵でもあり、「御百姓四郎兵衛」は本家の畑屋敷八代安部四郎兵衛(推定一七〇五~一七七五)である。

 

前沢町史下巻㈠一九六頁」11によると、「かつては北上川が、母体から長部に直流していた頃の赤生津は、山間部のみの貧しい山村であったが、度重なる洪水により、河道が西に向きを変え、蛇の鼻を多きく迂回するようになってからは、田谷下の谷起や小六谷起、向谷起という大氾濫原を形成した。これは元禄年代だといわれている。即ち羽場下から蛇の鼻対岸に至る広大な谷起地は、桑木植付けの絶好の地となったのである。そればかりか、表面が砂地で、下層土に小石混りの沃土のある地帯は良質の桑が育ち、川面から立ちのぼる水霧は、桑野にやわらかさを与えると、昔からいわれている。まさに蚕飼育の自然的な条件の整った赤生津に、良質の繭が生産されるのは、当然の帰結といえよう。従って安部家文書に見られる「相続(生活)潤に罷り成り、年増に蚕致す人数相倍に成り申し候。」という表現は決して誇張でなく、赤生津の現実の姿を現していると思う。また「蚕種一枚指し置き申候へば、五切、六切に罷り成り」とあるが、半切(八百文)の資本が、十倍―十二倍になるとすれば、既に農家の副業でなく本業化していったものと思われる。」

 

ウ 安部一族が北上川沖積地に集中し、養蚕業で発展した一七〇〇年代

一七〇〇年代になると赤生津の北上川沖積地の東側には、畑屋敷安部家の分家である山ノ神屋敷、前畑屋敷、曽利屋敷四軒の七軒の分家が並ぶ。本家が所有する四町七反の田畑をもとに

一族が養蚕業で繁栄したと考えられる。

 

エ 北上川舟運から鉄道という内陸輸送手段の変化ともに衰退した養蚕業

赤生津地域は、明治、大正になると養蚕のさらなる事業拡大がみられたが、北上川舟運から鉄道に変わる時期から養蚕業は衰退しこの沖積地は荒地となる。昭和となり長根屋敷安部精造が生母村長の時に、北上河畔二十余町歩を開田とした。

現在の開田となる昭和戦前の時代について、畑屋敷一八代安部嘉雄の弟、吉田屋敷の及川照男氏にきくと、「現在の県道を境に、東側が棚田で、水田と養蚕を営む農家がほとんどであり生活は安定した。沖積地桑畑は、小麦や大豆、小豆なども栽培された」という。

 

 

(二)水害圏での養蚕業、信仰、郷土芸能の先導的役割に関する総合的な考察

 

1642年(寛永19年)検地

1800年代の養蚕業全盛期

所有地

所有者

所有者又は小作人(推測)

四町七反

(検地)

※赤生津南地域

畑屋敷五代兵部

(四代将監の長男)

 

 

畑屋敷安部家

前畑屋敷安部家

曽利屋敷安部家(四軒)

山ノ神屋敷安部家

不明

※赤生津北地域

長根屋敷初代正八

(四代将監の二男)

下屋敷初代利兵衛

(四代将監の三男)

長根屋敷安部家

下屋敷安部家

日富屋敷安部家

 

【表1】赤生津安部家の所有する田畑の分家への相続(系図から推測)

 

  • 養蚕業の振興のために洪水常襲地帯に約三八〇年居住し続けた本家畑屋敷

 

系図では、初代は一五九〇年白鳥村舘から赤生津村青木地内に移住、二代目は比畑屋敷に移住。四代目将監から畑屋敷に移住とある。現在の本家の北に畑屋敷跡があり、安政二年(一八五五)一三代安部専蔵(一八〇七-一八八七)造立「稲荷大明神」の祠がある。一八代安部嘉雄(一九一五-二〇〇九)によると「大昔は、祠の脇を川が流れていて、船着き場だった。大きな家屋が三軒ほど並んでいた」という。大きな家屋は養蚕用の家屋と考えられる。

写真14 洪水常襲地域の畑屋敷

前沢町史中巻-五六一頁」12に、一六六二年「洪水よって川中谷起地が三十町歩程出現」とあり、直流だった北上川にはじめて沖積地ができた。一八四〇年から一五年間の工事で「向谷沖に新川を開削し、流路を転換した。北上川を上下する艜等の航行にも便したという」。湾曲上の沖積地の真ん中に川を造ったというが、洪水のためまもなく沖積地に戻ったという。

写真13 畑屋敷 稲荷大明神

このことから、「畑屋敷脇は北上川沿い」という言い伝えは、一六六二年以前の直流のころか、一八四〇年の新川の開削当時のことを指すと思われる。一六六二年の洪水により川が湾曲したとき、四代将監から、沖積地付近の畑屋敷に降りて住み、田畑を広げたというから、この時すでに、養蚕が導入されていたとも考えられる。

 

  • 水害と共存する養蚕業と農業の安泰を願い、「行山鹿踊」と「赤生津神楽」を伝受

 

前沢町史下巻㈠-一一五頁」11に「嘉永六年(一八五三)春の融雪洪水のため、北上川の締切が破壊し、河道は向谷起き、小六谷起を迂回して、蛇ノ鼻に突き当る現在の河道に変わっている」とある。現在の湾曲の沖積地の形は一八五三年の洪水で形成されたが、面積が広がったのではないかと考えられ、桑畑は水害常襲地にさらにひろがったと考えられる。

明治となる一八六八年以前の小山村時代に、「行山鹿踊」が平屋敷安部家に伝受され、一八九四年に「赤生津神楽」が山ノ神屋敷に伝受された。郷土芸能は、先祖供養や五穀豊穣を願う舞であるが、養蚕業は舟運の活用と水害地との共存の中で繁栄することから、自然を畏怖する気持ちや、さらなる養蚕業や農業の安泰の強い現れではないかと考えられる。

 

五 まとめ

 

第八報の目的は、奥州市の中で際立って高い密度で存在する赤生津地区の安部性の特異性を明らかにすることである。史料をもとにした考察から、赤生津安部氏は、桑畑に最適な北上川沖積地を選び、河岸付近に一族で居住し蚕を飼育、生糸は買い上げられ、付近の舟運で運搬されるこの環境を利用して発展していったといえる。

 毎年のように起こる増水被害の中で、自然災害と闘い、共存するなかで、自然への畏怖、養蚕業と農業の安泰の強い気持ちが、行山鹿踊や赤生津神楽の伝受につながったのではないかと考えられる。

 また、北上川沖積地の開田と赤生津橋架設に尽力した長根屋敷安部家が、赤生津橋の破壊流失の際に、自己所有林を提供するような行動から、自らを犠牲にしても郷土を守る姿が見られる。赤生津安部家から信仰に関する様々な史料が発掘されたが、この思想に裏打ちされた行動ではないかとも推察される。

したがって、赤生津安部氏の「赤生津村水害圏での養蚕業、信仰、郷土芸能の先導的役割」に関する検証では、赤生津村住民とともに、その先導的役割を果たしたと結論付けてよいと考えられる。

 

  六 謝辞

 

研究論文第一報から第六報までの著者安部徹良氏、安部皓三氏、安部公良氏、森靜子氏の後を引き継ぎ、第八報を発行させていただきましたことに感謝を申し上げます。また、史料提供いただきました赤生津の安部万王氏、安部勝氏、及川照男氏に厚く御礼申し上げます。

 

  

 

(1)「岩手県南史談会研究紀要第五〇集」(二〇二一年 岩手県南史談会)「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて(第七報)」一二頁、一四頁

(2)「胆沢町史Ⅵ近代編1」(二〇〇二年三月 胆沢町)「穴山堰と照井考」一八八頁

(3)「前沢町史下巻㈡」(一九八八年九月 前沢町)「⒀阿部精蔵の碑」一三二三頁

(4)「岩手県姓氏歴史人物大辞典」(一九九八年五月 株式会社角川書店)五一頁

(5)「胆沢町史Ⅹ民族編3」(一九九一年一〇月 胆沢町)一一四頁

(6)「日本回國六十六部縁起」(一九三五年八月 壽徳寺 宮木宥弌)一五頁

(7)「金ヶ崎町史近・現代編」(一九九一年一月 金ヶ崎町)六五二頁

(8)「隠し念仏回想録」(二〇一二年一二月 朝倉賢)一二頁

(9)「かくし念仏考第一」(一九五六年三月 高橋梵仙)一七五頁

(10)「民族宗教シリーズ 隠し念仏」(一九九九年七月 門屋光昭)六三頁

(11)「前沢町史下巻㈠」(一九八一年一月 前沢町)一一五頁、一九二頁、一九六頁

(12)「前沢町史中巻」(一九七六年七月 前沢町)四六〇頁、五六一頁