解説【市世界遺産登録候補地ガイドの会 後藤和夫氏】
時衡 父泉冠者泰衡
嘉應元年正月ニ生レ文治五年九月三日頼朝ノ先鋒畠山重忠ト戦ヒテ討死セリ年二十
(嘉応元年(1169)、文治五年(1189)、長男)
秀安 父泰衡
安元二年ニ生レ父兄死去ノ時年十四ナリ叔父俊衡ニ育セラレ成長ノ後胆沢郡小木明里ニ忍ヒ筆子ヲ扱ヒ世ヲ送ル俊衡ノ女璋子ヲ室トス二子ヲ生ム長ヲ秀宗ト名ク次ヲ良衡ト云フ秀安家系ヲ調ヘ子孫ニ傳フ
(安元二生(1176)、成長後十四歳の時、叔父俊衡に育てられ、胆沢郡小木明里に潜居、俊衡の娘璋子を妻とし、二子有り。
兄時衡は討死し、弟秀安は樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃は安倍氏を称す)を称したという。樋爪俊衡は、本所安堵を許されているから、平泉藤原一族の者の保護に任じたことは想像されるが、泰衡の子孫については、本系図以外支証がないという)
泰衡子息
時平(嘉応元年正月二日生、1169)泰衡17歳の時の子かで、文治五年九月三日父泰衡と同じく贄柵で畠山重忠と戦い死亡と。畠山重忠:鎌倉幕府創業の功臣で「坂東武士の鑑」と称された人物。後に北条時政の謀略で討たれた。
秀安(安元二年生、1176)泰衡24歳の時の子かで、父兄死亡時は14歳と思われ、計算上では合致している、秀安は樋爪俊衡に養育され、胆沢郡小木明里に居住し俊衡の娘璋子を妻として二子をもうけたと系図に記される。
「吾妻鏡」文治五年十一月八日条や秋田大館西木戸神社伝では3人(萬寿か)の子が居たかとも推測されるか。
尚、胆沢郡小木明里を過去に「胆沢史談会」が調査したが不明。