赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

八幡太郎義家が貞任軍の城柵を攻めるときは、3~4キロ手前に陣をとり、八幡神などを勧請したか

前沢白山から姉体町小槻を攻めるとき 白山神社に勧請し(白山神社由緒)、3.5キロ北の姉体小槻を攻めた(姉体村史) 胆沢南都田石名坂 久須神社から胆沢南都田都鳥舘を攻めるとき 石名坂神社に勧請し(神社由緒)、3キロ北の都鳥舘を攻めた(胆沢町史)

前九年合戦康平5年(1063)9月8日胆沢の久須神社に八幡太郎が勧請

厨川柵が9月に落城する前に、胆沢南都田化粧坂に官軍が立ち寄った。 比浦六郎家任が住む都鳥舘の戦いと関係があるか? 神社から北の方角3㎞には都鳥舘あとがある。その陣場であろうか。 胆沢町史 後編中世編306 安倍頼時が六男比浦六郎家任、・・・世人都鳥…

天喜6年(1058)とは 則任が比與鳥柵に妻を迎え入れる1年前の年?

天喜5年1057年 11月 黄海の戦い 天喜6年(康平元年)1058年 康平2年 春 安倍則任が比與鳥の柵に妻を迎へ取る 康平5年 1062年9月 厨川落城 康平7年 宗任は伊予に流される

菅原道真公の夫人墓に「天喜…6…年」前九年合戦中の年号か

菅原道真公の夫人は、延喜3年(903)に生母(現田河津)で亡くなる。 墓の石碑には、「天喜……6……年」とあるという。 天喜6年(康平元年)1058年であるとすれば、前九年合戦(1051-1062年)最中である。 没後100年以上の石碑が何を意味するのであろうか