赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

1588年浜田征伐に西磐井郡赤生津安倍重綱が気仙(陸前高田)に

【葛西氏家臣辞典517】 天正16年、浜田征伐に参加した者に、諸士の名前が恩賞関係の「晴信文書」に見られている。 胆沢郡の大内、石川、佐々木、鈴木、江刺郡の羽黒堂、及川、 西磐井郡の小岩、大槻、小野寺、(赤生津)安倍、佐々木、岩渕、千葉、奈良坂、 …

赤生津地内に八町の耕地を拝領した?安部小次郎

【岩手県史4】 寛永19年(1642)検地帳によると、 畑屋敷 5代安部三四郎 4町7反4畝19歩 宿屋敷大石茂右衛門 8町8反4畝16歩 大石家は、東舘白鳥氏の家老を務めた。1590年まで赤生津・東館には、白鳥氏と安部小次郎がいる。1642年はすでに、安部小次郎の次の世…

浜田騒動に関する安倍外記之助の晴信書状(偽書でない真書)

【生母教育史】 浜田城主(陸前高田市)の浜田安房守と、本吉郡志津川城主本吉大膳太夫とが衝突して。浜田勢が本吉郡岩月村に侵入するという戦乱が勃発した。この時、西磐井郡赤荻村(一関市)在住の安倍外記之介が両者の斡旋に奔走して、無事和解させた功に…

伊達家臣となった葛西衆の赤生津阿倍

13 阿倍 平士 300石 磐井郡赤生津に住す 【石巻の歴史6巻 242頁】 旧臣の移住 251頁 由緒の多くは「主君である葛西晴信公の没落以後に当村へ移住して百姓になった」 天正18年(1590)葛西・大崎家臣が主君の没落以後に浪人となり、当村へ移り、百姓となった…

安部氏が関わった、浜田安房守広綱に関する葛西晴信文書の検証

浜田の反乱に携わり軍功により安部氏に報償が与えられたというが、浜田征伐には、安部氏だけではなく多くの家臣が参加している。 葛西氏家臣辞典には、次のように記されている。 浜田征伐に参加した者に、胆沢郡の大内、石川、佐々木、鈴木、江刺郡の羽黒堂…

安部外記助・安部小次郎宛の葛西晴信文書の検証

(葛西左京太夫晴信文書 葛西史史料第4巻) 「安部外記介あて、軍功により赤生津村に5千苅永代」は、偽書となりうる可能性がある。ただし、外記介の孫、赤生津の「安部小次郎」は、伊達世臣家譜(伊達の門外不出の書)により「平士」であることは証明されて…

胆沢川の寿庵堰、そして前沢の岩堰・明後沢堰へ開削したキリシタン

先人は、水不足に悩まされた胆沢の水田に水を引くために、用水路を開削し、水田を潤し、胆沢から前沢の何百、何千という農民の生活を救いました。 若柳の胆沢川から前沢の古城の北上川までおよそ25㎞あります。 キリシタン弾圧により殉教者が増えながらも、…

伊達世臣家臣譜の大石(伊達郡大石邑・赤生津大石家出身地)

白鳥氏の先祖は伊達郡大石邑の大石家であり、伊達世臣である。 白鳥氏の家臣であったが、奥州仕置で、民間に下る。 ※世臣(代々その主家に仕えている家来)

伊達世臣家譜の阿部小次郎

伊達世臣家譜は、諸臣の家格・待遇の公的な根拠となるものであり、藩政時代には秘書として閲覧は厳しく規制され、写本など勿論存在しない。家譜は藩政時代には府庫に秘蔵された門外不出の書であったが、昭和12年から仙台叢書として印刷発行された。当時の伊…

前沢白山のキリシタン

神麻生村のキリシタン 奥州市前沢白山字大塚のシ社地内に「万霊塔」と刻んだ小さな墓石があり、天明2年の銘が微かに読み取れる。白山字字館の阿部寿七郎氏所蔵の古記録によると「一、大塚は本村大字稲置字大塚にあり、寛永17年切支丹宗徒を成敗して、その遺…

磐井郡赤生津村 安部十郎左衛門

磐井郡赤生津村(奥州市前沢)に、安部十郎左衛門を祖とする安部家がある。「磐井郡赤荻(一関市)安部氏 祖の安部外記之介」の安部家との関係は不明だが、同家は寛永年間までに数代を経ていると伝える。十郎左衛門の跡は兵庫ー将監ー三四郎ー幸内ー三左衛門…

安倍頼時

安倍頼時 あべのよりとき(?~1057) 平安中期の陸奥国の豪族。初名は頼良。「陸奥話記」に「六箇郡之司」とあり、胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手のいわゆる奥六郡を実質的に支配し、その南端の衣河関(衣川村)に本拠を構えた。その権限は、祖父忠頼…

阿部随波(安部外記之助 後裔)

阿部随波 あべずいは (1619~91) 仙台藩における著名な鉱山師。磐井郡山目村(一関市)生まれ。通称小平治、諱は重貞、号は随波。商才にたけ、江戸大火の際は石巻(宮城県)から江戸へ木材を送って莫大な利を得たという。盛岡藩領鹿角郡(秋田県)白根・尾…

安部精蔵(赤生津長根屋敷)

(1881~1951) 東磐井郡生母村(奥州市前沢)赤生津生まれ。生母村書記・収入役・助役を経て大正12年より3期生母村長を務め、村会議員を含め前後38年間村政に尽くした。また、村の農業会長、耕地整理組合長も務めたほか、北上河畔20余町歩の海田と赤生津橋…

1682年切支丹訴人に幕府懸賞、赤生津にも改名者増える

切支丹訴人に懸賞金と改名の因果関係を調べる必要があります。現調査時点では将監は類族としていません。 【岩手家のキリシタン・52頁】 1682年5月には、幕府がキリシタンに対して奉行名で「定」が板にかかれ高札として掲げられた。 定 切支丹宗門は、累年御…

「伊達世臣家譜の赤生津祖安部小次郎」「安永風土記の安部十郎左衛門」「赤生津村屋高七軒」から祖は畑屋敷に

伊達世臣家譜は,仙台藩家臣の系譜であり,百石以上の家臣の知行(ちぎょう)高の増減,役職の任免や諱(いみな)など家臣の概要を把握する上での基本史料である。編纂は田辺希文(たなべまれふみ),希元(まれもと),希績(まれつぐ)の三代の儒学者があ…

1590年鉄砲など近代戦に熟練した奥州仕置軍、一揆に対する再仕置の厳酷さ

葛西4百年(266頁) 秀吉は、占領地に対し厳重な検地と刀狩を発布。「山の奥、海は櫓櫂の続くまで、念入りに行い、いうことをきかない場合は、撫で切りにせよ」と徹底した。 葛西4百年(274頁) 反乱に組した者全員を誅殺して一揆は鎮定した。秀吉にしては、…

研究を始めた4代安部将監を祖とする長根屋敷

長根屋敷安部家では、郷土史研究家が課題としていた伊達世臣家譜にある葛西氏家臣の赤生津安部の祖 安部小次郎の存在について、本格的な研究をすすめました。 当家は教育や地方自治など他分野にわたり地域に貢献されています。 ▼安部精蔵 生母村長 16代 大正…

御家断絶の危機に「安部小次郎」から「安部十郎左衛門」に改名はありうるか?

「安部小次郎」から「安部十郎左衛門」を同一人物と仮定すると生没年は次のとおりです。 安部十郎左衛門義澄 = 安部小次郎重綱 推定生年1568年 推定没年1638年 【年齢推定の基準としたもの】 ①4代「安部将監(赤生津)」の生年1625年から世代間年齢19歳で初…

北上山地の砂金

川底に黄色に輝くのが砂金。今でも江刺の山地でも砂金は見られます。 明治、大正と国営、民間企業が採掘してきました。民間人は立ち入りできないことから、キリシタンが潜伏することが可能であり、米里にはキリシタンの町ができました。

畑屋敷墓碑から浮かび上がる赤生津安部祖

安部家旧墓地には約40から50基の墓と五輪塔が2基あります。初代十郎左衛門(推定1838卒)から16代幸蔵氏(昭和18年3月5日卒)までの先祖の霊が眠っております。 五輪塔の詳しい言い伝えはありませんが、武士であった初代、キリシタンを弔ったものではないか…

金鉱山を経営した安部小次郎系「阿部随波」もまた切支丹か

一関市山目の龍澤寺に眠る事業家の阿部随波の墓碑であります。 卍は、切支丹改宗者に記される墓字といいます。 「伊達世臣家譜」に、安部小次郎重綱の孫讃岐が伊達家に仕え、讃岐の孫が小平治重貞とあります。小平治が即ち伊達家に一万五千両を献金した富豪…

金鉱山で働いた東山町の田河津キリシタン

白鳥舘をみわたせる「良い土地」赤生津

束稲山・経塚山から眺める北上川蛇行部。円を描く北上川の中心に白鳥舘跡。右手の水田の中に赤生津安部の祖の地はあります。山地の堤に蓄えられた水から棚田に引き稲作ががなされ、森林から豊富な薪により生活が営まれてきました。 1590年ごろは、束稲山の東…

続「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」に向けた調査

赤生津畑屋敷安部家旧宅跡に咲く桜 【草稿】 再調査が令和2年8月からはじまり、安部小次郎に関する調査をすすめたところ、一関赤萩阿部家の後裔の方とお会いすることができました、さらには、初代安部外之介氏から現在までの、没年が示された墓標と巡り合う…

研究著書「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」あらまし

研究書は、ここですべて公開することはできませんが、前沢図書館、一関図書館に蔵書としてあります。安部小次郎が初代安部十良左衛門と同一人物であるかどうかは、昭和年代から郷土史研究家が挑んできたことでしたが、ついに、有力な史料や根拠を見つけるこ…

後藤寿庵の堰の開削引き継いだ前沢キリシタン

1644年から1873年までの230年間、禁教の時代を文字通り潜伏して生き抜き、明治になって禁教が解かれたときにカトリックに復帰した信者たちを「潜伏キリシタン」、一方で、カトリックに復帰せずに潜伏期以来の儀礼や行事を守ってきた人たちを「かくれキリシタ…

昭和12年に公開された伊達世臣家譜の赤生津安部氏

【下袋屋敷系図】「外記之助、小次郎まで、赤生津に居住し、天正18年葛西家没落に際し、大学に至って、旧領地の赤萩に居住したものであろう。 【一関千刈田阿部卯吉所蔵】天正18年葛西家没落に付、家中の諸士、或は戦死、或は離散」 (安部研究65P) 【隋波…

白鳥八郎の血を継ぐ白鳥舘・東舘城主

東磐井郡史には、白鳥八郎の後裔に白鳥民部少輔、そして天正の奥州仕置により没落後は、赤生津宿屋敷つまり大石家に血が引き継がれるとある。大石家の墓石にはこの覚書が記されていた。 また、葛西研究によると安部と大石家は同族関係とみられている。 〇大…

飢饉から人々を守った赤生津村切支丹

前沢町史による赤生津村切支丹 生母の赤生津荒谷屋敷の鈴木文一氏宅に天和3年(1683)から天保10年(1839)に至る75冊の「赤生津村高人別改帳」が保存されている。そのうち貞享5年(1688ー元禄元年)分に、赤生津村人口494人、内類族14人男8人女6人と書かれ…