2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧
【「鐵心郷潤」61】 「川越太郎平重頼 照井氏の祖なり」と川越家系図にある。 【著者】 藤原泰衡は源義経を殺した。泰衡の郎党に照井太郎がいた。 殺された側の「義経」の妻の父は、「河越太郎だが、照井太郎の祖となる」のはありえないのでは? 藤原泰衡 郎…
▼「1056前九年の役」のとき 安倍則任は、源氏に降参し、照井館に居住した。 照井太郎は、まだ現れていない。 ▼「1083-1089 後三年の役」のとき 安倍則任は、藤原清衡より三代(1087ー1187)仕えていた。 照井太郎は、まだ現れていない。 ▽1095 清衡、平泉に…
磐井郡郷土誌(昭和53年6月25日発行)134頁 〇東舘 東西二十八間 清和天皇ノ後胤山名駿河守泰衡衣川關所守護ニ任セラレ本館ニ居住ス文治五年閏五月衣川合戦ノ時知行二千七百貫ヲ領ス一敗地二塗ㇾ津輕ニ逃ル實ニ建久一年五月二十八日二子父敗戰ノ後ヲ受ケ氏ヲ…
【藤原家臣であることの1次史料?】 安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住ん…
▼1062年 前九年の役(源頼義の安倍氏討伐) 【想定】安倍則任は降参したが、白鳥村に住し、受難を逃避するため「安倍」から「照井」に改姓したか? ▼1089年 後三年の役(源義家の清原氏討ち) ▼1156年 岩出山町に照井城を築城 ▼1158年 照井太郎高春水路開削…
鐵心郷潤 4 照井堰の起源 名前の由来は、大凡八百五十年前に鎮守府将軍藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が最初に企画し開鑿したのが始まりとされている。しかしその秀衡公が逝去し、藤原四代泰衡公の代になって、源頼朝奥州に義経追討のため藤原四代は…
平泉の唄 源義経と照井高直 90 前沢歴史の会 本平次男 最初の穴山工事は八百年前に秀衡に仕えた照井太郎高春で照井堰を計画した人物であり、一関の照井堰が三百余年後に完成したように、穴堰工事も続行され、何代目かの照井太郎〇〇や△△となったが、、上に照…
胆沢平野 水と大地の物語 胆沢平野土地改良区創立五十周年記念誌 31 「穴山堰土地改良区史」には、「今より推定750年前、照井三郎が西磐井の照井堰の試掘のため、この「穴山用水堰」を開鑿し、前沢の白鳥川に通水すべく」とある。 水陸万頃 胆沢平野、水と大…
胆沢町史Ⅵ189頁 第5節穴山堰 安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住んでいた…
岩手県郷土誌(昭和53年発行)27頁 前澤町〔沿革〕より 平泉藤原氏の時大字白鳥字鵜ノ木に衣關を置き、また瀬原には柵を築き照井氏それを守る。蓋しこは北方の備なるべし。 岩手県郷土誌40頁 水澤町〔沿革〕より 村内(現前沢古城)に姥屋敷或は姥神塚と稱す…
前沢町郷土史史料】 〇新城(白鳥村風土記) 南北50間 東西14間 古城主年月日相知不申候 【前沢町史】 位置 前沢町白鳥字新城 「熊谷家系譜」によると永享十一(1439)年六月、大崎氏との佐沼での合戦に出陣した熊谷直胤は、軍功によって葛西持信より「白鳥…
奥州藤原氏、葛西氏 比与鳥七郎則任 照井太郎 1062年 前九年の役終わる 1083年 清原家衡が、その道すがら白鳥村在家 400 余家を焼き払った ------------------------ 1089 後三年の役終わり清衡、陸奥押領使となり陸奥六郡を領し、豊田館に住す。 1095 清衡…