2022-02-01から1ヶ月間の記事一覧
以前より学芸員の方々より指摘されていた赤生津住民宛「安部小次郎宛葛西晴信感状」の偽文書について、真剣に向き合うべき時期がきたと感じています。岩手県史、前沢町史、市町村史にあるから100%信用できるというものでもなさそうです。偽文書の研究も並行…
胆沢平野は安部一族拠点の衣川の軍事に必要な食料を確保するため重要な農地と見て、水路を引く工事に重点を置いたのではないか。 兄貞任とともに胆沢堰から白鳥川へ水を引く開発にあたっていたのだろうか。前九年後大分へ兄宗任とともに流される。その後、胆…
【安倍氏シンポジウム】 宗任と則任は九州へ流され、兄弟はほぼ戦死。 「安任 比与鳥七郎」とはだれか? 比与鳥村?どこか 白鳥村の前身か? 【シンポジウム系図】 〇貞任 戦死 〇宗任 ※宗任は家臣と長男・宗良、二男・仲任それに三男の季任と共に筑前(福岡…
1100年代ごろ 胆沢ダム付近から逆サイホンで地中の穴をとおり、地表に出て小さな堰に流れる
【安倍氏シンポジウム報告書】 67P 安田弘氏貞享「安部系図覚書」 則任 比与鳥七郎 罪二●シテ 京師二至? 71P 安倍昌任氏貞享 系図抄
「わらだ」と同じく竹製の「わらだ」を「かごわらだ」と言います。蚕の孵化から上簇までの期間、飼育に使われる道具で、竹を籠状に編んで使うことからこの呼び名があります。この「わらだ」に蚕と桑をのせ、繭になる直前までこの中で蚕を育てます。
神楽の台詞などが書かれている。登場するのは、天照大神、素戔嗚尊、八岐大蛇など。 昭和戦前に、山ノ神屋敷11代安部貞美氏が、赤生津神楽で八岐大蛇を演じた。 「目録」とあることから安部家が神楽を習得したのではないか。 今回も、胆江日日新聞社の宮本文…
天下和順が願われた。法華経の碑は復活した。 天下和順し日月清明なり、風雨時を以てし災厲起こらず。
もとは山ノ神屋敷の北側にあり、昭和年代(戦前か)まで、神楽や相撲などで奉納されたという(万王氏)。戦後、県道わきに移され、納屋が建つ。山ノ神は残る。
①平右衛門(妻) 宝暦9年(1759) ②義左衛門 文化5年(1808) ③幸之助 文化12年(1815) ④義右衛門 1周忌 文久1年(1861)
畑屋敷メモ 【吉田及川照男氏ききとり】 〇旧畑屋敷 現在の家屋の北側に広大な屋敷(養蚕業か?)あり 15代四郎兵衛(1846(弘化3)-1920(大正9))まで 〇近代の畑屋敷 現在の家屋の南側 16代幸蔵(1867(慶應3)-1943(昭和18)) 〇現在の畑屋敷 17代夘…
「『赤生津・安部氏』の出自を尋ねて」研究概要 赤生津安部家には、衣川安倍頼時の七男を祖とする口碑伝承がある。 11世紀の古代末期、陸奥国北部に威勢を振るった在地豪族、安倍貞任や宗任、白鳥八郎などで名を馳せた安倍氏である。安倍頼時は平安時代の武…
普通読本 明治20年4月11日から明治25年4月10日まで文部省検定済小学校教科用書
鹿踊免許皆伝
庭訓往来 9月 「庭訓往来」とは? 庭訓往来ていきんおうらい 中世後期から近代初頭にわたり普及した初歩教科書で、いわゆる往来物の一種。作者は僧玄恵(げんえ)との説もあるが不明。南北朝末期から室町前期に至る間の作とされている。進状・返状各一対ずつの…
赤生津下屋敷と山ノ神屋敷の所有する系図では、1600年代に赤生津安部家は1軒、1700年代には11軒である。本家畑屋敷系図の5代兵部(推定1645~1715)には「田畑請繁昌也」とある。前沢町史「赤生津村の養蚕」には、「宝暦3年(1753)から御百姓四郎兵衛が、…
【「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第一報 岩手県奧州市前沢生母・赤生津地区における「アベ」姓世带数分布の特長】 中尊寺の金色堂の修理は、たびたび行われているが、明治三十年の修理時に、棟木に墨書が記されているのが発見され、金色堂は天治元年(一…
元禄11年(1698年)赤生津村図(生母吉田及川照男氏所蔵) 慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開いた後、慶長末頃には赤生津村には屋高は21軒あった。その後、借金、殺人などに関連した逃亡や逐電、また老衰、疾病、乞食で死亡するものなどがあり、屋高…
「前九年合戦絵巻」(源頼義・安倍頼時が決裂し合戦へと至る)出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システㇺ(https://colbase.nich.go.jp) 古代東北の雄「安倍氏」 前沢町史下巻㈠によると、「平安時代の中期後半に岩手の奥六郡を制覇した安倍氏は、その一族…