2022-01-01から1年間の記事一覧
山ノ神屋敷の西側に、前畑屋敷2代安部万右衛門(推定1685-1755)が建てた 養蚕の神を祀る「蠺影」の碑がある。
平成21年1月31日 本家18代 安部嘉雄 死去(出自解明を求める) 平成21年7月15日 県南史談会研究紀要第38集発行 第1報掲載 平成27年6月30日 県南史談会研究紀要第44集発行 第6報掲載 平成27年12月12日 研究主著者逝去 本家18代 安部嘉雄の遺志を引き継ぎ調査 …
生母赤生津の養蚕農家の文化とその歴史的考察 一 概要 北上川蛇行の遊水地にある「赤生津開田」は洪水常襲地域であるが、昭和戦前までは沖積地一帯が桑畑であり養蚕業で繁栄してきた。束稲山麓の棚田との併用により養蚕農家は繫栄し、独自の郷土芸能や信仰が…
生母赤生津の農村文化とその歴史的考察 ~赤生津安部家史料から検証~ 一 概要 北上川蛇行の遊水地にある「赤生津開田」は洪水常襲地域であるが、昭和戦前までは沖積地一帯が桑畑であり養蚕業で繁栄してきた。束稲山麓の棚田との併用により養蚕農家は繫栄し…
本家畑屋敷18代嘉雄、分家山ノ神屋敷12代万王は「山ノ神屋敷は畑屋敷の別家である」という。現存する畑屋敷と山ノ神屋敷の系図上での接点は見られないが、調査から畑屋敷8代四郎兵衛から分家した弟「小四良」が山ノ神屋敷初代「平右衛門」と同一人物であると…
3列目(後) ①1772 ⓷ ⑤1857 ⑥1782 -1代妻 初代卯三郎妻 3代 法華経供養塔 2列目 ⓶1830 ⑤1824 2代 4代妻 ▼前畑屋敷 3代三左衛門 妻 又は 曽利屋敷3 初代清五郎 又は 曽利屋敷4 初代 卯之助 元治元年(1772) ※後列左端 ▼御産堂 2代 九右衛門 天保元年(1830…
▼畑屋舗 初代(浪人)、2代(浪人)の墓か 五輪塔 ▼畑屋敷3代 兵庫 清室道覚禅定門 延宝元年(1673) ▼畑屋敷4代 将監 宝永2年(1705) ▼畑屋敷5代兵部(三四郎) 正徳元年(1711) 7代三左衛門造立(左下に三左衛門) ▽畑屋敷6代孝内 享保10年(1725) ※切…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて ―第八報 奥州仕置の時代に白鳥村舘から赤生津村に移住した安部氏の「束稲山麓と洪水常襲地域での養蚕業、信仰、郷土芸能の振興」に関する検証― 一 概要 豊臣秀吉の天下統一時代に、奥州仕置軍は、白鳥村の白鳥舘や照井舘を…
【「鐵心郷潤」61】 「川越太郎平重頼 照井氏の祖なり」と川越家系図にある。 【著者】 藤原泰衡は源義経を殺した。泰衡の郎党に照井太郎がいた。 殺された側の「義経」の妻の父は、「河越太郎だが、照井太郎の祖となる」のはありえないのでは? 藤原泰衡 郎…
▼「1056前九年の役」のとき 安倍則任は、源氏に降参し、照井館に居住した。 照井太郎は、まだ現れていない。 ▼「1083-1089 後三年の役」のとき 安倍則任は、藤原清衡より三代(1087ー1187)仕えていた。 照井太郎は、まだ現れていない。 ▽1095 清衡、平泉に…
磐井郡郷土誌(昭和53年6月25日発行)134頁 〇東舘 東西二十八間 清和天皇ノ後胤山名駿河守泰衡衣川關所守護ニ任セラレ本館ニ居住ス文治五年閏五月衣川合戦ノ時知行二千七百貫ヲ領ス一敗地二塗ㇾ津輕ニ逃ル實ニ建久一年五月二十八日二子父敗戰ノ後ヲ受ケ氏ヲ…
【藤原家臣であることの1次史料?】 安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住ん…
▼1062年 前九年の役(源頼義の安倍氏討伐) 【想定】安倍則任は降参したが、白鳥村に住し、受難を逃避するため「安倍」から「照井」に改姓したか? ▼1089年 後三年の役(源義家の清原氏討ち) ▼1156年 岩出山町に照井城を築城 ▼1158年 照井太郎高春水路開削…
鐵心郷潤 4 照井堰の起源 名前の由来は、大凡八百五十年前に鎮守府将軍藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が最初に企画し開鑿したのが始まりとされている。しかしその秀衡公が逝去し、藤原四代泰衡公の代になって、源頼朝奥州に義経追討のため藤原四代は…
平泉の唄 源義経と照井高直 90 前沢歴史の会 本平次男 最初の穴山工事は八百年前に秀衡に仕えた照井太郎高春で照井堰を計画した人物であり、一関の照井堰が三百余年後に完成したように、穴堰工事も続行され、何代目かの照井太郎〇〇や△△となったが、、上に照…
胆沢平野 水と大地の物語 胆沢平野土地改良区創立五十周年記念誌 31 「穴山堰土地改良区史」には、「今より推定750年前、照井三郎が西磐井の照井堰の試掘のため、この「穴山用水堰」を開鑿し、前沢の白鳥川に通水すべく」とある。 水陸万頃 胆沢平野、水と大…
胆沢町史Ⅵ189頁 第5節穴山堰 安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住んでいた…
岩手県郷土誌(昭和53年発行)27頁 前澤町〔沿革〕より 平泉藤原氏の時大字白鳥字鵜ノ木に衣關を置き、また瀬原には柵を築き照井氏それを守る。蓋しこは北方の備なるべし。 岩手県郷土誌40頁 水澤町〔沿革〕より 村内(現前沢古城)に姥屋敷或は姥神塚と稱す…
前沢町郷土史史料】 〇新城(白鳥村風土記) 南北50間 東西14間 古城主年月日相知不申候 【前沢町史】 位置 前沢町白鳥字新城 「熊谷家系譜」によると永享十一(1439)年六月、大崎氏との佐沼での合戦に出陣した熊谷直胤は、軍功によって葛西持信より「白鳥…
奥州藤原氏、葛西氏 比与鳥七郎則任 照井太郎 1062年 前九年の役終わる 1083年 清原家衡が、その道すがら白鳥村在家 400 余家を焼き払った ------------------------ 1089 後三年の役終わり清衡、陸奥押領使となり陸奥六郡を領し、豊田館に住す。 1095 清衡…
天正16年 浜田の乱に参戦した葛西家臣の軍功に対する恩賞は 現奥州市の参戦した家臣は7名いる。うち5名は感状(偽文書といわれる)がある。2名は感状はないが、系図に浜田参戦とある。加増された土地に住んでいる家臣もある。 それぞれの由緒から参戦は事実…
盲目の長男が系図にある場合、白鳥八郎則任 盲目の長男が系図にない場合は、比与鳥七郎か? 比与鳥七郎は、降伏し出家(現一関市)し、白鳥村舘に居住したという。
20 義家の武勇同年12月17日の国解に次のような記録がある。「斬り殺した賊軍の者は、安倍貞任、同重任、藤原経清、散位平孝忠、藤原重久、散位物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降客安倍宗任、弟家任、則任(出家して帰降)散位為元、金為行、同…
城中の中にひとりの美女がいた。この人は則任の妻であるが、厨川の柵が落ちる時、三歳になる息子を抱き、ひとり夫の則任に叫んで言った。「わが君よ。今あなた様はまさに死を目の前にしておられます。この先、私ひとりで生きていくことはできません。あなた…
19 貞任の最後貞任は、剣を抜き、官軍を斬った。官軍は、鉾をもって貞任刺して捕らえた。貞任は六人が担ぐ大楯(おおだて)に載せられ、これを将軍の前に召し出された。貞任は身長は180cmを有に越えて、腰回りは2m20cm(七尺四寸)ばかり。容貌…
18 頼義、経清の首級を斬る17日、午後二時(未)頃、将軍は将兵に次のように命じた。「各自、近くの村落に行って、家屋を壊して、ここに運び込め。そしてこの城の溝を埋めるのだ。また別の者は、それぞれ萱(かや)を苅ってきて、これを河岸に敷き詰める…
17 官軍、厨川の柵を囲む9月14日、官軍は厨川柵に向った。15日、午後6時頃(酉)に到着した。厨川、嫗戸(うばと)の二柵を包囲した。ふたつの柵の距離は、7、8町(650-760m)ほどである。このふたつの柵を封鎖するため鶴翼の陣を張って、…
武則は深く感謝して頭を下げ、直ぐに安倍正任の居城和賀郡にある黒沢尻の柵を襲い、これを落城させた。射殺した正任軍の兵32人。手傷を負って逃亡した将兵の数は多数。また鶴脛(つるはぎ=花巻市鳥ヶ崎付近?)、比與鳥(ひよどり=紫波郡陣ヶ岡?)の二…
16 宗任、経清等、鳥海の柵を放棄す同11日、官軍は、明け方鳥海の柵を襲った。進軍の行程は10里(約6.5キロ)ばかり。ところが官軍が到着しない前、すでに宗任、経清らは、この城を捨てて、厨川の柵(盛岡)に向かった後であった。将軍は鳥海の柵に…