赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧

小鳥埼は黒沢尻正任の子

鶴脛柵 ≒ 鶴野柵(相去舘) か

鶴脛柵は、北上市相去「相去城鶴野館」と、稲瀬「鶴脛柵」の2か所ある?

仙台叢書 のうじん・・・437P 鶴脛柵迹。相去村 是は往昔安倍頼方を居せしむ。前九年の戦には頼時が。四男黒沢尻四郎正任此柵に籠城。官軍と闘戦けれども戦利あらず。遂に此柵敗亡して正任源家へ降参すると在り。此驛より一里行きて和賀川あり。南部領、仙台…

北上川東「東海道」から貞任軍を追う義家軍。正法寺→黒石高清水→岩谷堂→上門岡(稲瀬)→展勝地陣ケ岡(畳山)

仙台叢書 のうじん440P 〇正法寺。黒石村 黨(とう)陣場。 前九年の合戦に。源義家の軍兵の陣所なりと云。今は正法寺の墓場といなりて在り。 〇岩谷堂 水飼池迹。驛裏に半點(すこしき)堤あり。水飼ノ池と云。前九年の合戦に。官軍源家の陣営なり。源義家…

家任は、胆沢都鳥村「比浦柵」に居て、前九年合戦は、照沢正源寺「比浦柵」で構えるも逃げ、上門岡村で官軍と戦い、兄貞任と東西へ別れる

仙台叢書 のうじん・・・436P 比浦柵迹。都鳥村。 往昔安倍頼時が。六男比浦六郎家任。所住。所在の節築き構へたる館なり。世人都鳥館と云。故に都鳥六郎とも云り。前九年の合戦に敗北して。源家へ降参すると在り。此六郎を白鳥六郎と覚えたる人あり。白鳥館…

貞任(家任)が鶴脛柵を追われて「一夜館(上門岡)」へ、頼義が黒沢尻を攻める陣地も一夜館

江刺史 4巻176P 一夜館(上門岡) 北上氏稲瀬町字熊沢 (由緒)前九年の駅で安倍貞任(家任カ)が、鶴脛柵を追われて逃げる際、一夜の宿としたところという。また源頼義が黒沢尻柵を攻めるにあたり、白狐の案内でここに一夜にして館を築き、そのため勝利し…

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は?

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。 中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母…

仙台叢書には、①比與鳥柵は白鳥舘、②列女則任妻は白鳥舘東の北上川の藻屑となる

前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。 則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡…

前太平記の「安倍則任の恋物語」とは

(著者) 則任の妻は、敗戦により敵軍の妻に差し出されるのを嫌がり、夫のためにも、自害を選び、三歳の子とともに、堀の水に沈んだ。列女と云われる所以となる。 前太平記には、則任と妻の出会いが描かれている。妻は、「土師氏」の子孫というが詳しくは分…

「比與鳥柵」もうひとつの擬定地 江刺稲瀬「正源寺」。「兵部館」「比浦の柵(比浦六郎家任)」ともいわれる。

前太平記の「安倍則任の恋物語」とある。 えさしの歴史 155P 「岩手県管轄地誌」には、照沢村の條に、東舘、西舘と言わずに、一を安倍五郎家任の鶴脛館、一を七郎則任の居所比与鳥館となし、同所にありとしている。 ・・・シロトリの訛称が、他地方から来た…

黒沢尻柵跡

前九年合戦の戦場か 北上市「相去城」

安倍頼時弟の境講師良照は、天台宗定額寺(官寺に次ぐ)極楽寺(北上市稲瀬)の講師

貞任の兄盲目の井殿の屋敷跡(水沢佐倉河)。子孫は掃部長者伝説

前九年で井殿は盲目のため無罪で生き残る。胆沢愛宕に多い「安倍家」は、井殿の家臣一族

姉体町は、前九年合戦戦場。「大壇」は兵士の墓

義家と貞任が戦う姉体町宿 義家の陣場となった姉体町の宿場。黒石町鵜木城の貞任と戦う。跡には八幡宮が

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。舞草刀の髙橋一族がいた伝説

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。刀もつくられたか

貞任を追う義家「大歩」「小歩」は、胆沢川の重要な分水口。貞任、宗任が胆沢平野開発か

天台宗講師の境講師良照は、矢尽山「僧寺」(胆沢ダム)に居た

矢尽山「僧寺」 胆沢ダムからひめかゆ温泉の山 義家が貞任と良照を追い、僧寺の山を焼け尽したという。矢尽山という ※胆沢町史

前沢白山「六日入城」は上麻生柵の予備城

貞任を追う義家「黒沢尻難攻不落」で一夜舘(北上市稲瀬)に陣をはる

安倍正任、家任、則任は三つの柵に分散、義家軍は軍を分かち差向ける。作戦の指揮は貞任か

安倍氏の親族である清原軍(秋田県)が官軍を安倍氏の城柵に誘導する。清原軍は、安倍氏の軍事作戦を知る。敵軍清原氏の従弟(母親が清原氏)である宗任、正任ははじめから逃げる覚悟であった。母親が清原氏でなく、金氏の安倍貞任、重任、則任がおもに官軍…

安倍頼時の弟「境講師良照」は、天台宗講師。陸奥の天台宗は安倍氏からか

極楽寺(北上市稲瀬町)に境講師が任期中在住。その後胆沢(胆沢ダム)「僧寺」在住。前九年合戦では、小松柵(一関)を守るが、胆沢の「小松の谷木」から秋田街道通じ秋田県大仙市の「唐松城」へ逃げる。義家軍に攻め滅ぼされる。

貞任を追う八幡太郎義家軍のルートは①衣川館から馬留(胆沢ダム)、②衣川館から高山(水沢佐倉河)、③瀬原柵から鳥海柵、④東街道(生母、黒石、江刺)

貞任を追う八幡太郎義家軍のルート ①衣川館から馬留(胆沢ダム) 衣川館→一首坂→兎口館(胆沢愛宕)→大歩→小歩→永徳寺→首無沢(金ヶ崎)→門ヶ城(愛宕原・愛宕小学校)→法願館(鹿合・胆沢愛宕)→猪鼻館・栄の花(胆沢ダム記念館)→橋渡し→矢尽山(ひめかゆ…

貞任の妹の白糸城(金ヶ崎) 八幡太郎義家に恋して亡くなる 義家捕虜伝説も

前九年合戦の小松柵 境講師が守る 境講師は胆沢ダム小松を通じ秋田唐桑城へ逃亡

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢堀切明神神社

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢「替馬壇」。義家の馬を葬る

鶴脛柵は江刺稲瀬鶴脛台 厨川落城ときき兵は逃亡

鳥海、厨川落城後に、比與鳥、鶴脛が攻められる。はじめは、比與鳥で則任が奮闘するが敗れ、次に鶴脛に行くが、恐れおののき逃亡した。 鶴脛城に城柵はあり、木や岩が投げられないか注意しながら登ったというから、ある程度高台にあるはずである。

前九年合戦八幡太郎義家の足跡「衣川 一首坂」

前九年合戦で宗任、正任が逃げる理由は、官軍に寝返った従弟の清原氏が原因

宗任、正任の母は、清原氏であり、敵である従弟や親戚に追討される。 貞任、則任、重任の母は、金氏であり、清原氏と直接の血縁関係にない。官軍、清原氏に殺されたのは貞任、重任である。