赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

赤生津安部1-1~安部姓が市内で最も多い地域  胆江日日新聞2022.5.26(毎週木曜連載)

1700年本朝武家評林大系図「安倍氏」には、「則任 比與鳥七郎」

盲目の長男が系図にある場合、白鳥八郎則任 盲目の長男が系図にない場合は、比与鳥七郎か? 比与鳥七郎は、降伏し出家(現一関市)し、白鳥村舘に居住したという。

陸奥話記1062年12月17日。安倍則任は、出家して帰降。”白鳥八郎(比与鳥七郎)は生きて白鳥舘に住したか”

20 義家の武勇同年12月17日の国解に次のような記録がある。「斬り殺した賊軍の者は、安倍貞任、同重任、藤原経清、散位平孝忠、藤原重久、散位物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降客安倍宗任、弟家任、則任(出家して帰降)散位為元、金為行、同…

陸奥話記1062年9月17日。厨川の柵が落ちる時、則任の妻、幼子を抱きながら、自ら深い崖に身を投じる

城中の中にひとりの美女がいた。この人は則任の妻であるが、厨川の柵が落ちる時、三歳になる息子を抱き、ひとり夫の則任に叫んで言った。「わが君よ。今あなた様はまさに死を目の前にしておられます。この先、私ひとりで生きていくことはできません。あなた…

陸奥話記1062年9月17日。貞任の最後、千世童子も

19 貞任の最後貞任は、剣を抜き、官軍を斬った。官軍は、鉾をもって貞任刺して捕らえた。貞任は六人が担ぐ大楯(おおだて)に載せられ、これを将軍の前に召し出された。貞任は身長は180cmを有に越えて、腰回りは2m20cm(七尺四寸)ばかり。容貌…

陸奥話記1062年9月17日。頼義は、厨川柵(盛岡市)を焼き、経清の首級を斬る

18 頼義、経清の首級を斬る17日、午後二時(未)頃、将軍は将兵に次のように命じた。「各自、近くの村落に行って、家屋を壊して、ここに運び込め。そしてこの城の溝を埋めるのだ。また別の者は、それぞれ萱(かや)を苅ってきて、これを河岸に敷き詰める…

陸奥話記1062年9月14日。官軍は、厨川柵(盛岡市)を攻撃

17 官軍、厨川の柵を囲む9月14日、官軍は厨川柵に向った。15日、午後6時頃(酉)に到着した。厨川、嫗戸(うばと)の二柵を包囲した。ふたつの柵の距離は、7、8町(650-760m)ほどである。このふたつの柵を封鎖するため鶴翼の陣を張って、…

陸奥話記1062年9月11日。官軍は、鶴脛柵、比與鳥柵(江刺稲瀬?)を落城

武則は深く感謝して頭を下げ、直ぐに安倍正任の居城和賀郡にある黒沢尻の柵を襲い、これを落城させた。射殺した正任軍の兵32人。手傷を負って逃亡した将兵の数は多数。また鶴脛(つるはぎ=花巻市鳥ヶ崎付近?)、比與鳥(ひよどり=紫波郡陣ヶ岡?)の二…

陸奥話記1062年9月11日。官軍は、宗任の「鳥海の柵」(金ヶ崎町)を襲う

16 宗任、経清等、鳥海の柵を放棄す同11日、官軍は、明け方鳥海の柵を襲った。進軍の行程は10里(約6.5キロ)ばかり。ところが官軍が到着しない前、すでに宗任、経清らは、この城を捨てて、厨川の柵(盛岡)に向かった後であった。将軍は鳥海の柵に…

陸奥話記1062年9月7日。源軍が白鳥に進軍、大麻生野と瀬原(白鳥館周辺)の2柵を攻め落とす

翌日7日、官軍は衣河の関を破り、胆沢郡白鳥村に進軍した。大麻生野と瀬原(水沢市前沢町白鳥館周辺)の2柵を攻め落として捕虜1人を捕まえた。この武者が言うことには「今回の度々の合戦の場で、わが軍の将の死者は数十人に上っている。この中には、あの…

陸奥話記1062年9月6日。源軍が貞任軍の衣河の関を攻撃

衣川の衣川関跡。高速道路付近 15 衣河関での攻防戦9月6日正午の時、将軍は安倍軍の高梨の宿に入り、即日、衣河の関を攻撃しようと思った。衣河の関は、元来路は狭く、その上足場が悪く険しいことで、この関を攻め落とすのはあの函谷関(中国河南省にあ…

陸奥話記1062年8月17日。磐井郡「小松の柵」安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の柵を源頼義軍が攻める

衣川の安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の舘。小松の柵は磐井にある 陸奥話記13 清原氏の援軍を得て官軍反撃す頼義軍は、松山道を進軍して、南磐井郡の中山の大風澤に赴いた。翌日(17日)、同郡の萩野馬場に達した。この場所は、小松の柵を離れること、五…

赤生津安部出自が胆江新聞に連載。5月26日から

赤生津安部出自1から7報まで、5月26日から毎週木曜日、胆江日日新聞2面に50回で連載されます。 故安部徹良氏、故安部皓三氏、安部公良氏、森靜子氏の著者によりはじまります。