赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は?

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。

中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母(墓は田河津)、子が現奥州市姉体町に配流されている。姉体町に菅原神社2社、田河津に菅公夫人の墓がある。その約100年後に子孫が白鳥舘の則任と結婚するという想定だが、郷土史になく確証はない。

しかし、藤原道真氏は、中納言を経て大納言、右大臣まで勤めている。当時の歴代の閣僚でほかに陸奥に関係する閣僚はいないと考えられたが・・・。

土師氏は、古墳や土師器などを生産する一族であったが、菅原の姓になった。

 

「菅公夫人の墓」(S59年 髙橋大蔵)29P

中納言に菅原昭真氏がいる

気仙沼市九条神社は、菅原昭真従三位中納言九条民部卿系図には奥州落ちとある)が起こした神社とある。延喜元年(901年)右大臣道真ノ事座し眨(おとし)める・・・

道真氏関係で冤罪による配流とある。

 

羽黒神社 中納言伝説

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羽黒神社 (engishiki.org)

羽黒神社の由来
伝記などによりますと、今からおよそ1160年前、嵯峨天皇弘仁年間のことといわれます。五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めてこの地にたどり着きました。

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神々のルーツ 道真の怨霊と天満宮 – 全日本民医連 (min-iren.gr.jp)

ルーツは百済系「土師氏」

 道真のルーツは朝鮮半島にあります。大阪府藤井寺市には百済系とされる葛井氏の氏寺・葛井寺があり、それが市名となっています。近くの辛国神社は、ヤマト王権成立前からこの地に根を張っていた物部氏の一族・韓国広足が祖先を祀った神社。一族が韓国であれば物部氏朝鮮半島出身でしょう。
 近鉄南大阪線道明寺駅近くにある道明寺天満宮は道真の叔母が住んでいた場所で、道真の第二の故郷でした。古くは土師神社と呼ばれ、境内には元宮の土師社が建っています。実は、この「土師」が道真のルーツです。
 『続日本紀』(781年)に、道真の曽祖父にあたる土師古人が桓武天皇に「居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで、土師から菅原に改姓したい」と願い出て、これを許されたとの記述があります。添下郡菅原邑は現在の奈良市菅原町で、ここにも菅原天満宮があります。

 

仙台叢書には、①比與鳥柵は白鳥舘、②列女則任妻は白鳥舘東の北上川の藻屑となる

前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。

則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡したため、北上川に子とともに飛び込み藻屑となる。

とすると、則任妻は、正史では厨川で堀の水に沈むとあるが、前沢白鳥の白鳥舘の北上川で亡くなることになる。

陸奥話記では、厨川で戦が終結するが、外史(民間の歴史)では、厨川の後に、白鳥舘で敗北することになる。

これは、「陸奥話記の成立」(野中哲照)にもあるように、義家軍が衣川から北進し次々と城柵を落とし最北端の厨川で大将貞任を倒すまでの、意図的な物語の創出といえる。目的は、源氏の功績を知らしめる軍記物語としたためである。

 

 

前太平記の「安倍則任の恋物語」とは

(著者)

則任の妻は、敗戦により敵軍の妻に差し出されるのを嫌がり、夫のためにも、自害を選び、三歳の子とともに、堀の水に沈んだ。列女と云われる所以となる。

太平記には、則任と妻の出会いが描かれている。妻は、「土師氏」の子孫というが詳しくは分からない。

江刺稲瀬の郷土史では、この「土師氏」を土師器の生産場所ととらえている。

著者は、この「土師氏」を、菅原道真の先祖「土師氏」との関連を調べている。則任の時代の役100年前に、菅原道真大宰府に左遷され、夫人と娘が水沢姉体と生母に配流された。詳細は別に記す。

 

【前太平記

厨川の柵破るる事付則任が妻の事

 

斯くて官軍城中に亂れ入り、猶も餘黨を討取らんと搜し索めたりけれども、いつの間にか落ち行きけん一人も殘らずして、かの一類の妻女よと覺えて綾羅九四を著、金翠九五を粧ひたる美女數十人一つ所に集まり居て、煙に咽び鬨の聲に驚きて泣き悲しめるばかりなり。官軍勝鬨作つて萬歳と呼ばふ。將軍かの美女を召出して諸軍勢にぞ賜びにける。その中にも亘理權大夫經淸が妻は貞任が妹なり。乳房の嬰兒を抱き伏し沈みてぞ居たりける。その容有樣の殊に優れて美しかりけれども、目の當り朝敵の最たることを憚りてや、「我申し賜はらん」と申す者もなかりけり。然るに武則眞人、去ぬるころ妻室に後れたりけれども、成長の子共に恥ぢて再び妻をも迎へざりければ、將軍「かの經淸が妻女を箕箒の妾九六ともし給へ」とて、密に武則にぞ賜びてげる(或は曰く、「經淸が妻は武則が長子、荒川太郞武貞これを賜はり妻とす」と。蓋しこの說用ひ難し。)。然ればこの孤子成長して寬治の戰ひ九七に義家朝臣の幕下に召され莫大の忠勤を勵みたる藤原淸衡これなり。 

 

その外の女房皆偕老の契の夫に棄てられ、甲斐なき命助かりたるばかりにて、思はぬ比翼の枕九八を並べ、心に染まぬ鴛鴦の衾九九を重ね辱しめを被りし中に、一人烈女の名を殘し、貞潔の義を立てたるは則任が妻女なり。

 

 一年則任物詣して歸るさに道の邊に賤しの萱屋一〇〇あり。年久しく住み馴れしと見えて木立物舊り苔に埋もるる柴の編戶一〇一、格子一〇二半蔀一〇三いと故付きたる一〇四樣なり。則任過ぎがてに馬打寄せ生垣の上より見越したるに、年の程十四五なる女の貴一〇五なるが簀子一〇六に出でて、竹の欄一〇七に倚り掛かりて、垣根に誇る夕顏の且つ且つ一〇八咲けるを、目離もせず詠め入つて涼み居たり。則任はその色香のえならず一〇九愛敬づきたる一一〇に心浮かれ、具したりし下部らが思はんずるところの恥づかしさも打忘れて馬も進まず躊躇たり。女は見る人ありとも知らず、何やらん口吟みてただ一人嘯き居たるに、折節杜鵑雲居に音信けるを振り上げて見るさまに、則任が顏と見合せたり。はしたなき樣もやはしたりけるにやと、甚う恥づかしげなり。則任いとど心迷ひ聲振ひて「物申さん」と言ひけるに、女顏打赤め袖覆ひして走り入りぬ。またも出づべきにもあらねど、猶惘然として居たるほどに早黃昏過ぐるにぞ、然のみはとて歸りけり。  則任靜心なく思ひ亂れて、人して「誰人の住家なるぞ」と問はせけるに、「土師氏の何某とかやの流されて、この所に年を經ておはするが、その女なり」とぞ申しける。兎角して緣を求め數重なりし水莖一一一は、人目いかにや陸奧の浮名取川一一二、流れ來て人の情の淺瀨川一一三、戀ふる淚や淵となりけん例にもとて、年月を經て搔き口說きけるにぞ、遂に深き仲となりて去ぬる康平二年一一四の春、比與鳥の柵に迎へ取りてけり。幾程もなくて腹ふくらかになりて明くる年の夏、子をなん儲けたりけり。その子男にてぞありける。 

然るに一家滅亡の期來つて、比與鳥の柵も攻め拔かれ、この厨川の柵に落ちもて來りしかども、ここもまた攻め落とされ、兵火燃え上がり柵破れければ、かの妻則任に向ひて申しけるは、「この世の中も今は斯うとこそ覺え候。御一門皆々討死し給ふべし。然れば我女の身なれば、何方に立ち忍ぶとも命のみは然りともと思ひ候へども、誰を賴みて存命ふべき身にしあらねば、幼子諸共に殿に先立ち進らせて、二夫に見えじと思ふ我が貞節をも見せ進らすべし。『猛き武士心にも、妻子に引かれては最期も淨からず、意ならぬ不覺をも取る』とこそ承りつれ。我死して後快く討死せさせ給ふべし。九品の臺一一五とかやにて座を設けて待ち進らすべし。疾く追つ付かせ給へ」と言ひ棄て、かの三歳になりし子を抱き走り出でぬ。

則任「暫し」と留めけれども聞きも入れずして、一の堀の水の深みにその身を投げて、底の水屑となりにけり。いと哀れに優しかりけり。則任も淚に昏れ更に前後も覺えざりしが、何に心や殘りけん、續いて死なんともせず、剩へ人々と共に落ち行きて、又おめおめと首を伸べ、遂に降人になつて出でにけり。あなうたての則任が心や、恩愛の妻子を先立て、その貞節にも報はずして、首繼いで何の面目かある。女にも劣りたりし行跡、淺ましとも言ふばかりなく、それと聞きける人ごとに爪彈きをせぬはなかりけり。