赤生津・安部氏の出自を尋ねて

①1590奥州仕置後の浪人、②秀吉ゴールドラッシュの混乱、③切支丹弾圧を生き延びた赤生津安部の祖を探求しています

葛西氏没落後の領主の行方(東山町の例)

 

【東山町史 95-122】

東山町内の領主(館主)と諸士

(貞綱)葛西氏没落の後は、寺沢館を出て民間に下り、松川でその晩年を過ごした。

(松川)葛西氏滅亡後は、伊達政宗に知行20貫は召し上げられ、民間に降り松川村肝入役を務めた。

(信光)葛西家滅亡のため大泉の居館を去り、松川邑奈良坂寨に移居した。

(義房)秀吉の小田原攻めに参陣せず、所領没収居城追放となる。子弟・従卒とともに羽州仙北に至り民間に潜居する。その後、慶長5年(1600)9月、弟等と共に義旗を挙げ二子城に入ったが、数次の合戦利なく、よく6年4月戦傷死。

(忠親)兄義房と共に義兵を挙げ二子城に入り、後岩崎に移ったが戦利なく、義房・長勝戦死。義弘重囲を脱して宮城郡に入り忠親と改名したが、追及厳しく自刃。

(忠廣)岩崎落城の時5才。葛西旧臣摺沢邑岩渕大炊の秘計により、竹かごに入れられ家臣に負われて摺沢に逃れ、流箭巻小原家に養われる。

(武政)天正の没落後は、実父の苗字を名乗ることもためらい、中倉を名乗り、文禄2年(1593)に豊臣秀吉より金山取締りを命ぜられる。

(重基)備後、三郎右衛門。文禄3年(1594)豊臣秀吉の宰相浅野弾正より、東山7邑(門崎・松川・相川・舞草・小嶋・長部・赤生津)の金山取締を命ぜられ、金山の開発を掌る。慶長中伊達政宗に属し、騎を以て家僕を率い戦陣に赴く。

畑屋敷安部家系図と生没年

畑屋敷安部家の系図は、2代から12代までは、「磐井郡東山南方赤生津村代数有之御百姓書出」、百姓名簿を掲載した岩手県史4、岩手県姓名辞典(390頁)により掲載と一致しており、13代からは戸籍により証明されている。しかしながら、初代は、他地域から赤生津に移住したため、系図にあっても、百姓名簿には登載されない。また、生没年は、戒名など消失のため推測される年齢を記した。4代将監の組頭年齢が史料にあることから、「将監の生まれ年1625年」をもとに、戸籍で確認できる13代専臓の間を平均で生没年を表した。1代から3代も同様に平均値から推定年代を算出した。なお、戸籍で確認できる14代から17代の世代間は23年、享年の平均は71歳である。

 

名前 根拠 生年 没年 世代間差 享年
初代 十良左衛門義澄 推定 1565 1635   70
2代 十郎左衛門(市良左衛門義里) 推定 1585 1655 20 70
3代 兵庫(十良左衛門義則) 推定 1605 1675 20 70
4代 将監(惣右衛門) 組頭年齢から寛永2年 1625 1695 20 70
5代 兵部(三四良) 推定 1645 1715 20 70
6代 孝内 推定 1665 1735 20 70
7代 三左衛門 推定 1685 1755 20 70
8代 四良(郎)兵衛 推定 1705 1775 20 70
9代 孝内 推定 1725 1795 20 70
10代 孝内 推定 1745 1815 20 70
11代 幾太郎 推定 1765 1835 20 70
12代 幸内 推定 1785 1855 20 70
13代 専蔵 戸籍から 1807 1887 22 80
14代 幸治 戸籍から 1824 1891 17 67
15代 四郎兵衛 戸籍から 1846 1920 22 74
16代 幸蔵 戸籍から 1867 1943 21 76
17代 夘助 戸籍から 1901 1970 34 69
18代 嘉雄 戸籍から 1915 2009 14 94
19代 戸籍から 1942 1990 27 48
      14~19代平均 23 71

4代安部将監が1600年代に造立の山ノ神

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系図に「4代 畑屋敷 安部将監 山神権現造立」とある。分家の安部万王氏宅の裏にある。「大任命」を祭神とし、別当「安部夘助」、9月12日祭日とある。

【生母教育史】

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【当調査】他地域では、山の神をも切支丹崇拝の対象としている例もある。当地域ではきいたことはない。畑屋敷には、①大明神、②山の神、③鈴木家宅の高台の祠?があるが、村の神社に記載されているのは「山の神」。

 

 

 

4代 藤原泰衡を弔う束稲山奥の月山神社

奥本殿の月山神社には、男二子と、女二子神社「子安観音」がある。泰衡夫人が、中尊寺僧にお願いして勧請したと伝える。女二子には子安観音があり、中腹の山中とはいえ、参拝者が絶つことはない。

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【生母教育史】祭日は4月29日

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【当調査】他地域では、子安観音を聖母マリアに見立てて崇拝するキリシタンがある。当時域の伝承はきいていない。

平泉町長島「月舘大師堂」 浄土を表す石像か

畑屋敷から南に1.5㎞には、天台大師の12世紀石像があります。慈覚大師円仁は天台宗を東北に広め、黒石寺再興や中尊寺などにも関わりました。白鳥舘の対岸であり、なぜこの地に安置されたのでしょうか。黒石寺の慈覚大師円仁像は木造で寺に安置されています。

大師堂の付近には、古戦場と伝える場所がある。朝廷軍の北上川渡河の上陸地点として「赤生津(奥州市前沢生母)附近」があられている。その理由に「赤生津の人々は征討軍と交戦したという伝説がある。身を隠したという大きい石もある」

安部氏時代の戦の犠牲者を弔う石像なのでしょうか。阿弖流為の時代から安部氏、そして葛西氏の時代にも戦地となったのでしょうか。

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 月舘大師堂
月舘大師堂には、伝教大師最澄)と伝えられる石像があります。
弘台寿院(現中尊寺)に運ぶ途中、
現在安置している場所で動かなくなりその場に安置したと伝わっております。
昔から天然痘の仏として病気撤退を祈願したと言われています。
また、白鳥舘遺跡北上川対岸に位置し、
ともに平泉の浄土世界の北の結界とも言われています。

 

 

 

1855年(安政2)造立の畑屋敷の稲荷大明神

畑屋敷安部家の稲荷大明神の木札裏には、安政2年(1855)9月15日が読み取れる。明治に入る13年前のことで、13代安部専蔵のころである。年齢は戸籍生年による。

13代 安部専蔵 48歳
14代 安部幸治 31歳
15代 安部四郎兵衛  9歳

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赤生津村「ゴールドラッシュ」と金山一揆、混乱から家断絶多数

ゴールドラッシュ(英語: gold rush)とは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。秀吉が課した年貢が払えず、葛西氏滅亡後の文禄3年(1594)「金山一揆」が起こり、逃亡や金銭を巡るトラブルが起きていた。岩手県史にはこのような背景は書かれていないが、当時の赤生津村の混乱が説明できるのではないか。やがて数百年で金は取りつくされ、多くの堀子が村から立ち去り、赤生津7軒だけが残り由来となった。寛永16年(1639)の調べでは、7軒の中には、畑屋敷の安部本家が残り、畑屋敷 5代安部三四郎(兵部 改名)の名がある

 

【金産村落と欧州の地域社会】

奥州仕置きの後、豊臣秀吉は、磐井郡の金山を直接管理した。「ゴールドラッシュ」により諸国から堀子が集まり混乱や紛争が生じた。さらに年貢を賦課したことにより1594年(文禄3年)金山一揆は起きた。

岩手県史4巻68】

赤生津村風土記屋高七軒之由来(大家蔵書)

東山の赤生津村には慶長の末頃屋高(役屋らしい)21軒あったが、慶長17年(1612)中に6軒が断絶し、元和元年(1615)に3軒、同3年(1617)2軒が断絶し、合計11軒を引いた10軒だけが残った。まず慶長中には斎田屋敷左藤右衛門という者が乞食して死んだのをはじめ、館の馬場孫左衛門は穿儀をかけられて逃げ去り、杉の下隼人(はじめ木の葉)は年寄りで死に、畑北庵そうは西国詣りで行方をくらまし、東源助は他人を斬って逃げ去り、高ぬいは田河津金山で遭難した。元和元年(1615)には柿小屋左衛太郎は疫病で死に、北畑平右衛門は無尽の掛金と借金のため逃げ去り、町田但馬は気の狂った聟(むこ)に娘を殺され断絶した。同3年(1617)森田禾女(本判持)は御判金に困って逃げ去り、馬ノ森新左衛門は田畑屋敷まで金山に掘り倒されてついにたおれた。..この11人は元和3年4月9日新田刑部と四竈豊前があらためて(この両者が代官であったかも知れない)。屋高から引かれ、おそらく明屋敷になったものと思われる。この屋高が同村元和検地のそれであろうか。

 以上の11人が寛文3年(1663)にはまず小屋敷喜兵衛が原住の南部領に逃げ帰り、新地与右衛門は喧嘩して刀で殺され、堂徳内蔵介は「舟斃(ふなたおれ?)」になって死んだので、寛文4年(1664)6月10日大蔵次兵衛と内馬場次左衛門が検めて屋高から引去り、結局宿屋敷(肝入)茂右衛門・三四郎(※5代安部兵部 改名)・竹内門右衛門・箱根与平・西掃部・畑北助九郎・東源四郎の7人だけが残った。この7人は寛永16年(1639)9月13日、沼辺甚左衛門と大松沢甚九郎の両名が調べたと記している。この屋高とは年貢負担の単位(役屋を示すものと思われるが、つまり「日形考古史録」)にも見るような人足や家役を有するウものであろう。然るに同村寛永19年(1642)9月2日の検地帳には、25人の人頭が記され、そのうち入作と家中を除けば15人の百姓があるから、寛永4年(1627)以後立てられた百姓(8人)を含むようにも思われ(寛永4年は、若林城の取立てや、大松沢村など郷村組織にも一つの契機になっている。)、寛永検地帳の本百姓・新百姓と区別する手掛かりにもなるようだが、確かなことは言えない。なお慶長に廿一軒、寛永末に15軒とすれば、人頭は増加しなかったことになるし、家中を入れてもちょうど同じ位である。