赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2022-01-01から1ヶ月間の記事一覧

安部精蔵氏の功績

安部精蔵は、三期生母村長を務め、北上河畔二〇余町歩の開田と赤生津橋架設を完成させた。赤生津に頌徳碑が建つ(岩手県姓氏歴史人物大辞典)。子の安部寿三良は前沢町長。 ※安部精蔵は、赤生津橋が洪水で破損した際に自費を投じて修繕をした。

山ノ神屋敷古文書2

宝暦3年(1753年)赤生津養蚕古文書の養種売方「赤生津村御百姓四郎兵衛」は、畑屋敷8代四郎兵衛(推定1705~1775)か?

束稲山麓の養蚕業の古文書は、赤生津山ノ神屋敷安部万王氏が所蔵している(前沢町史下巻㈠192)。この古文書に「拙者儀親類に東山町赤生津村御百姓四郎兵衛と申す者御座候間、右同人に養種売方相願い、……」とある。仙台藩要路の役人に提出した領内蚕種販売の…

北上河畔二十余町歩の開田と赤生津橋の架設に貢献「安部精蔵の頌徳碑」 ~畑屋敷4代将監二男長根屋敷~

【岩手県姓名辞典】 安部精蔵(1881~1951) 東磐井郡生母村(前沢町)赤生津生まれ。生母村書記・収入役・助役を経て大正一二年より三期生母村長を務め、村会議員を含め前後三八年間村政に尽くした。また、村の農業会長、耕地整理組合長も務めたほか、北上…

43演目のうち「御神楽」のみ残る「赤生津神楽(市指定無形文化財)」

昭和戦前まで、ヤマタノオロチの演目があったという神楽。この御神楽と関係があったと考えられています。 9295.pdf (city.oshu.iwate.jp) 口伝によれば、文政年間(1820年代)、面彫師民三郎と米蔵とが南部神楽を習得し、山神舞・八幡舞・翁舞等を踊ったのが…

安倍一族の亡魂を救った衣川の剣舞

川西念仏剣舞は、北上和賀地方に伝わる同種の鬼剣舞に比べ、念仏によって衆生を済度する意識がより強く、盆や中尊寺の施餓鬼法会などの際に、精霊供養として踊られてきた。伝承によると、藤原清衡の治世に、安倍一族の亡魂が夜ごと現れ人心を乱したので、清…

赤生津山ノ神(荒井)屋敷古文書1 大福帳安政5年(1858)

安政5年 荒井屋敷 (安部)義左衛門 大福帳 とある 大福帳【だいふくちょう】 江戸時代の町人によって利用された日本固有の会計帳簿で,債権・債務を記録する人名勘定元帳を意味する。明治以降,複式簿記(洋式簿記)の導入によって利用価値を喪失したが,商…

赤生津地域の農業遺産に関すること

1 農山村の食料や生計に関する歴史 赤生津村は、天正18年(1590)秀吉の奥州仕置後の混乱により、21軒のうち多くが断絶し1639年には「赤生津7軒」(岩手県史4巻69頁)となる。そのうち葛西家臣から浪人となった系統には大石家(東館白鳥氏家老)、安部家(…

束稲山麓養蚕の発祥地。赤生図遊水地は1753から桑畑、養蚕で発達。舟運から鉄道に変わり衰退、昭和30年代に開田

桑畑は北上川の洪水に強く、砂地に適していた。桑の質がよく、繭の生糸の質もよい。伊達藩との取引があった。束稲山麓の養蚕の発祥地である。 ▼前沢町史 安部万王氏所蔵の養蚕に関する古文書

赤生津開田(北上川蛇行の遊水地)

▼生母吉田 及川照男氏 昭和30年まで一帯は桑畑。水田は県道を境に東側にあった。桑畑では二毛作がある。桑の下に小麦をまく。麦の間に豆と小豆。桑畑は洪水に強い。 昭和30年以降に現在の開田となる。水田には大桜(前沢地区)の人も通う。 ▼東舘西道路沿い…

赤生津神楽「ヤマタノオロチ」

▼生母青木 及川照男氏 昔小学生のころ一度だけ神楽演目で「ヤマタノオロチ」を見た。吉田の八幡神社だった。布袋に糠をつめヘビに見立て、面をつけた。安部万王さんのちち貞美さんが、横たわり手足を使って5mほどの大蛇を躍らせた。血を吐き出す場面では糠…

赤生津の行山流獅子踊り(戦前まで)

▼生母吉田 及川照男氏(S10年生) 戦前で小学生のころ月山神社などの祭典で3,4人で獅子踊りをしているのを見た。鈴木とらのすけ(新地)、安部寿平(長根)、初貝ゆうすけ(斎田)が教えていた。小山から教えられ免許皆伝を受けた。戦後食糧難で、獅子踊り…

束稲山麓世界農業遺産登録に向けて資料① 赤生津7軒から59年後の1698年赤生津図

▼赤生津図(生母吉田 及川照男氏所蔵) 元禄11年10月(1698) 生江昭内(あおえ しょうない) (右説明)道幅3分1町の道筋・・・ (下説明)この道前沢へ出 渡り船 川幅3町17分 赤生津7軒(1639年)とその分家が描かれている。宿屋敷大石家、畑屋敷安部家な…